アブー・ウバイド・バクリー

アブー・ウバイド・バクリーAbū ʿUbayd ʿAbd Allāh b. ʿAbd al-ʿAzīz b. Muḥammad b. Ayyūb b. ʿAmr al-Bakrī、1014年頃生 - 1094年没)は、アンダルスイスラーム教徒地理学者歴史学者である。著作のほとんどは湮滅に帰したが、残された『諸道と諸国の書』は、貴重な中世西アフリカに関する情報を伝える。イスムはアブドゥッラー・ブン・アブドゥルアズィーズ。普通は、ニスバにより短くバクリーと呼ばれる。

生涯

バクリーはウエルバにあった小国の王子として生まれた[1]。ニスバはバヌー・バクル(英語版)部族に属すことから。父のアブドゥルアズィーズは、後ウマイヤ朝の没落に乗じてウエルバで自立を宣言したが、長くは続かず、ムウタディド(英語版、アラビア語版)によりウエルバの統治者の立場から退けられた[2]。バクリーはコルドバへ行き、そこで地理学者のウズリーと歴史学者のイブン・ハイヤーン・クルトゥビー(英語版)に弟子入りして彼らに学んだ[2]。その後はアルメリーアのカリフ、ムウタスィム(al-Muʿtasim)の宮廷に出仕し、生涯の多くの時間をそこで過ごした[2]。また、セビージャにも長くいたことがあり、1079年にエル・シッドがムウタディドの宮廷にアルフォンソ6世からの贈り物を持って来たときにも、セビージャにいた[2]。バクリーは、著書で触れた各地に実際足を運んだことは一度もなく、コルドバで亡くなった[2]

著作

バクリーが伝える10~11世紀のセネガル川流域の諸市
詳細は「諸道と諸国の書 (バクリー)(英語版)」を参照

バクリーの地誌は、提示する情報が比較的客観的であるとされる[3]。バクリーは地域ごとに、地理、気候、主要な街を記載するだけでなく、そこに住む人々とその習俗、その土地にまつわるアネクドートも記載した[3]。バクリーの著作の多くは失われ、現代には二つしか伝わらなかった[2]。一つ目の Mu'jam mā ista'jam は、アラビア半島を中心とした地名が列挙してあり、地理的背景に関する序説が付されている[2]。二つ目の著作、Kitāb al-Masālik wa al-Mamālik (『諸道と諸国の書』)が重要である。

『諸道と諸国の書』は、ムハンマド・ブン・ユースフ・ワッラーク(904-973)やイブラーヒーム・ビン・ヤアクーブ・トゥルトゥーシー(英語版)といった商人や旅行者の報告や、その他の文献に基づいて1068年に書かれた[3]。西アフリカの歴史に関する最も重要な一次史料の一つであり、ガーナ帝国ムラービト朝、10~11世紀当時のトランス=サハラ交易について、かけがえのない情報を今に伝えている[3]。バクリーがイブン・ユースフ・ワッラークから得た情報は10世紀のものであるが、執筆時点で直近に起きた出来事についてもバクリーは書いている[3]

バクリーは、10世紀終わりごろのトランス=サハラ交易における交易センターの様子について次のように言及している。ニジェール川沿いの町や村では、まだイスラームが本格的に受容されておらず、ガオはムスリムの現地住民がいる数少ない街の一つだったという。

「都市ガーナは平野に位置する二つの街からなる。」「そのうちの一つはムスリムが住む大きな街であり、モスクが12軒ある。そのうちの1軒は金曜日の礼拝に集まる金曜モスクである。職業的な導師やムアッジンもいれば、ムフティーウラマーもいる」
『諸道と諸国の書』[4]

ガオとガーナのほかにも、西スーダーンには、大河の大湾曲部に沿って交易センターが存在した。11世紀にはこれらの交易センターについての報告が、アンダルスに入ってきており、バクリーはそれらの報告に基づくことで『諸道と諸国の書』を書くことができた。

『諸道と諸国の書』には、そのほかに、スカンジナビア半島に住む人々や、スラヴ人についても書いている[2]。これら10世紀の北欧や東欧についての記述は、ユダヤ人のイブラーヒーム・ビン・ヤアクーブ・トゥルトゥーシーの報告に基づいたものである[2]。バクリーの『諸道と諸国の書』はアラビア語圏で数世紀にわたって読み継がれた[2]

バクリーには、そのほかに、Aʿyān al-nabār あるいは Kitāb al-nabāt という題名の、薬草学に関する著作があったと考えられるが、失われている[2]。後代の学者が薬草学の権威としてバクリーに度々言及している[2]

出典

  1. ^ Lévi-Provençal, E. (1960), “Abū ʿUbayd al-Bakrī”, Encyclopaedia of Islam 2nd Ed. Vol. 1, Leiden: Brill, pp. 155–157 
  2. ^ a b c d e f g h i j k l Vernet, J. (2008) [1970-80]. "Al-Bakrī, Abū ʿUbayd ʿAbdallāh Ibn ʿAbd Al-ʿAzīz Ibn Muḥammad". Complete Dictionary of Scientific Biography. Encyclopedia.com. 2018年1月13日閲覧 (Vernet, J. (1970), “Bakrī, Abū ʿUbayd ʿAbdallāh Ibn ʿAbd al-ʿAzīz Ibn Muḥammad al-”, in Gillispie, Charles C., Dictionary of Scientific Biography Vol. 1, New York: Charles Scribner's Sons, pp. 413–414 )
  3. ^ a b c d e Levtzion, Nehemia; Hopkins, John F.P., eds. (2000) [1981], Corpus of Early Arabic Sources for West Africa, New York: Marcus Weiner Press, ISBN 1-55876-241-8  62–87ページにバクリーの『諸道と諸国の書』の西アフリカに関する著述の抜粋がある。62ページに解説あり。
  4. ^ “From Africa, in Ajami”. Saudi Aramco World. 2018年1月12日閲覧。

発展資料

「アブー・ウバイド・バクリー」をさらに詳しく知るための発展資料
  • El-Bekri (1859). Description de l'Afrique septentrionale. William McGuckin de Slane, translator and editor. Paris: Imprimerie Impériale. https://books.google.com/books?id=LkEYAAAAYAAJ  Revised edition with corrections (1913), Tangiers: Adolphe Jourdan. Available from Gallica.
  • Reinaud, J.T. (1860). “Notice sur les dictionnaries géographiques arabes”. Journal Asiatique 16: 65–106. http://gallica.bnf.fr/ark:/12148/bpt6k931762.image.f65.  Al-Bakri's dictionary mentioned on page 75.
  • White, Robert C. (1968). “Early geographical dictionaries”. Geographical Review 58: 652–659. JSTOR 212687. 

外部リンク

  • "The Culture of Al-Andalus: Geography". Unity Productions Foundation. {{cite web}}: Cite webテンプレートでは|access-date=引数が必須です。 (説明)
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