アーロン・バー

アーロン・バー
Aaron Burr
アーロン・バー(ジョン・ヴァンダーリン画、1802年)
生年月日 (1756-02-06) 1756年2月6日
出生地 イギリス領北米植民地ニュージャージー植民地ニューアーク
没年月日 (1836-09-14) 1836年9月14日(80歳没)
死没地 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国ニューヨーク州スタテン島
出身校 ニュージャージー大学
所属政党 民主共和党
配偶者 セオドシア・バートゥ・プレヴォスト
エリザ・ボウエン・ジェメル
サイン

在任期間 1801年3月4日 - 1805年3月4日
大統領 トーマス・ジェファーソン

選挙区 ニューヨーク州
在任期間 1791年3月4日 - 1797年3月4日

第3代ニューヨーク州司法長官
在任期間 1789年9月29日 - 1791年11月8日
知事 ジョージ・クリントン

選挙区 ニューヨーク郡
在任期間 1784年 - 1785年
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アーロン・バー・ジュニア英語: Aaron Burr Jr., 1756年2月6日 - 1836年9月14日)は、アメリカ合衆国政治家および冒険者ニューヨーク州の民主共和党設立の主要メンバーおよびジョージ・クリントン知事の支援者であり、トーマス・ジェファーソン大統領下の第3代副大統領としてよりも、アレクサンダー・ハミルトンとの決闘および反逆罪での裁判と罪の免除に関して有名である。1799年、バンク・オブ・マンハッタンを設立した。

生涯

生い立ちおよび家族

ニュージャージー植民地ニューアークで、ニュージャージー大学(現在のプリンストン大学)の第2代学長アーロン・バー・シニアの息子として生まれた。母親のエスター・エドワーズは、有名なカルヴァン主義の神学者ジョナサン・エドワーズの娘であった。

はじめ神学を学んだが2年後にそれを諦め、コネチカット州リッチフィールドで彼の義理の兄弟タッピング・リーヴの手引きで法律を学び始めた。彼の勉学はアメリカ独立戦争のために中断された。戦争の間彼は、ベネディクト・アーノルドジョージ・ワシントンおよびイズラエル・パットナムの下で働いた。

軍歴

アメリカ独立戦争中バーはベネディクト・アーノルドの1775年カナダ遠征軍に加わった。そしてケベックの戦いの前に彼はカトリックの司祭に変装して、リチャード・モントゴメリー将軍にアーノルドの到着を知らせるため、イギリス軍下の120マイルの危険な旅行をした。バーはケベックから退却する際戦死したモントゴメリーを運んだとされる。バーの勇気ある行動はワシントンのスタッフへの採用に繋がった。しかしながらワシントンはバーを信頼したわけではなかった。一方でパットナムはバーをかばい、ロングアイランドからの退却でバーは警戒行動によって敵による捕獲から全旅団を救った。1777年7月にバーは中佐に昇進し連隊の指揮を引き受け、冬のバレーフォージではガルフと呼ばれた宿営地に通じる道で、攻撃されるとすれば必ず最初のポイントとなる所の防御に着いた。1778年6月28日モンマスの戦いではスターリング卿師団下のマルコム旅団を指揮した。彼らはイギリス軍の砲撃によって10分の1に激減し、バーは熱中症に苦しんだ。彼はその病から快復することは出来なかった。

1779年1月にバーはウェストチェスター郡のライン、キングスブリッジのイギリス軍と約15マイル北に位置するアメリカ軍との間の地域の指揮を割り当てられた。この地域では多くの混乱とホイッグおよびトーリーの両陣営による不法行為、両軍の指揮を離れた兵士による略奪行為が行われていた。バーは完全な巡回システムと厳格に強化した戒厳令を敷き、素早く統制を回復した。彼は病気が原因で1779年3月に軍を退役し、再び法律を学び始めた。彼は1782年にオールバニーで法曹界入りし、翌年イギリス軍の撤退後にニューヨークで弁護士業を始めた。

結婚

1782年にセオドシア・バートウ・プレヴォスト(アメリカ独立戦争中に西インド諸島で戦死した英国陸軍士官の寡婦)と結婚した。彼らは二人の娘をもうけた。下の娘サラは3歳で死亡し、1783年に生まれた上の娘セオドシアはその美貌と業績で広く知られるようになった。彼女は1801年にサウスカロライナのジョーゼフ・アルストンと結婚したが、1812年末もしくは1813年の初めにカロライナでの難破で死亡した。

アーロン・バーと最初の妻は彼女が癌で死亡するまで12年間の結婚生活を営んだ。

1833年にバーはスティーヴン・ジュメルの寡婦イライザ・ボウエン・ジュメルと再婚した。イライザは彼女の財産が夫の土地投機で減少していることを悟り、彼らは四ヶ月後に別居した。彼らの結婚一周年記念の月に彼女は離婚を訴え、それはバーの死去した1836年9月14日に認められた。

初期の政治経歴

バーのニューヨーク法曹界におけるライバルはアレクサンダー・ハミルトンであった。バーは1784年から1785年までニューヨーク州議会議員を務めた。1789年、初代ニューヨーク州知事であるジョージ・クリントンにより、州の司法長官に任命された。1791年に革命要求委員会の委員であった。

さらに1791年の上院議員選ではハミルトンの義父フィリップ・スカイラーを破り、1797年まで連邦上院議員を務めた。この頃に全国的な政党が結成され、バーは1792年に成立した民主共和党へ入党した。ニューヨーク州の政界における重要人物となり、ハミルトンよりも影響力を持つようになった。それはタマニー協会の後ろ盾によるものであり、バーはタマニー協会を社交クラブから政治組織に変化させた。1792年の大統領選挙の選挙人投票では、サウスカロライナ州の1票がアーロン・バーに投じられた。さらに、1796年の大統領選挙では民主共和党の大統領候補となったトマス・ジェファーソンから副大統領候補に指名され、選挙人投票で30票を得たが落選した。

彼は上院に再選されず、その代り1798年から1801年までニューヨーク州議会議員を務めた。

当時の奇妙な出来事の一つとして、フランス革命の間に外交官のタレイランが恐怖政治から逃れバーのニューヨークの自宅に身を寄せた。後年バーが反逆裁判の後アメリカを出国したが、タレイランはバーのフランス入国を拒絶した。

副大統領職

決闘

バーは1804年の大統領選挙ジェファーソンの副大統領候補として指名されない見通しとなり、代わりにニューヨーク州知事選に出馬した。バーは無所属候補として出馬したが、知名度の低い民主共和党の候補モルガンルイスに大差で敗れた。

アレクサンダー・ハミルトン1792年の大統領選挙でのバーの副大統領候補選出への希望に反対し、1798年にはバーが准将に任命されるのを防ぐためにワシントンを通じて影響を及ぼした。仇敵のハミルトンは知事選の際にはバーへの侮辱的な演説を行った。二人は法曹界に於いて長年のライバルであった。

バーは決闘を申し込むことで応えた。1804年7月11日にバーとハミルトンはニュージャージー州ウィホーケンで決闘を行い、下胸部に銃弾を受けたハミルトンは翌日死亡した。バーはその後二つの州に於いて殺人罪で告発されたが、両管轄において審判されることはなかった。彼はサウスカロライナ州に逃亡し、その後ワシントンD.C.に戻り副大統領としての任期を全うした。

反逆の共謀と裁判

晩年

1833年にスキャンダラスな過去を持つニューヨークの裕福な寡婦イライザ・B・ジュメル (1769-1865) と再婚したが、バーが土地投機で彼女の財産を失ったことが原因ですぐに別居した。バーは1836年にニューヨーク州スタテン島のポート・リッチモンドで死去した。

伝えられるところによれば後年バーは、以前のスキャンダルに関係していなかったアーロン・エドワーズ(Aaron Edwards, エドワーズは母親の旧姓)の名を名乗っていたとされる。

外部リンク

ウィキメディア・コモンズには、アーロン・バーに関連するカテゴリがあります。
  • Did Aaron Burr Really Try to Take Over Half of America?
  • The Political Graveyard: Edwards family
  • Photographic tour of Aaron Burr's grave at Princeton Cemetery.
  • Find-A-Grave profile for Aaron Burr
  • Harry Toulmin Biography
  • The Arrest of Aaron Burr in Alabama
  • The Aaron Burr Association
  • Letters of Aaron Burr
  • United States Congress. "アーロン・バー (id: B001133)". Biographical Directory of the United States Congress (英語). Retrieved on 2009-02-26
  • J. Ryland Kendrick (1900). "Burr, Aaron" . In Wilson, J. G.; Fiske, J. (eds.). Appletons' Cyclopædia of American Biography (英語). New York: D. Appleton.
公職
先代
トーマス・ジェファーソン
アメリカ合衆国副大統領
1801年3月4日 - 1805年3月4日
次代
ジョージ・クリントン
司法職
先代
リチャード・ヴァリック
ニューヨーク州検事総長
1789年9月29日 - 1791年11月8日
次代
モーガン・ルイス
アメリカ合衆国上院
先代
フィリップ・スカイラー
アメリカ合衆国の旗 ニューヨーク州選出上院議員(第1部)
1791年3月4日 – 1797年3月4日
同職:ルーファス・キング, ジョン・ローランス
次代
フィリップ・スカイラー
党職
先代
ジョージ・クリントン(a)
民主共和党副大統領候補(1)
1796年(b), 1800年(b)
次代
ジョージ・クリントン
注釈
1. 1804年の憲法修正第12条の成立前は、各大統領選における選挙人は2票を投じた:最多得票者が大統領となり、次点が副大統領となった。

a. 1792年の大統領選ではジョージ・ワシントンが本命の大統領候補であり、民主共和党は副大統領に選出される前提でジョージ・クリントンを擁立した。
b. バーは1796年1800年の選挙における大統領候補であった。民主共和党はトーマス・ジェファーソンを大統領候補の本命として、副大統領に選出される前提でバーを擁立した。

アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国副大統領
※ 名前の後ろの年号は就任年を表す
  1. アダムズ 1789年
  2. ジェファーソン 1797年
  3. バー 1801年
  4. クリントン 1805年
  5. ゲリー 1813年
  6. トンプキンズ 1817年
  7. カルフーン 1825年
  8. ヴァン・ビューレン 1833年
  9. R・ジョンソン 1837年
  10. タイラー 1841年
  11. ダラス 1845年
  12. フィルモア 1849年
  13. キング 1853年
  14. ブレッキンリッジ 1857年
  15. ハムリン 1861年
  16. A・ジョンソン 1865年
  17. コルファクス 1869年
  18. ウィルソン 1873年
  19. ウィーラー 1877年
  20. アーサー 1881年
  21. ヘンドリックス 1885年
  22. モートン 1889年
  23. スティーブンソン 1893年
  24. ホーバート 1897年
  25. ルーズベルト 1901年
  26. フェアバンクス 1905年
  27. シャーマン 1909年
  28. マーシャル 1913年
  29. クーリッジ 1921年
  30. ドーズ 1925年
  31. カーティス 1929年
  32. ガーナー 1933年
  33. ウォレス 1941年
  34. トルーマン 1945年
  35. バークリー 1949年
  36. ニクソン 1953年
  37. L・ジョンソン 1961年
  38. ハンフリー 1965年
  39. アグニュー 1969年
  40. フォード 1973年連邦議会による承認
  41. ロックフェラー 1974年連邦議会による承認
  42. モンデール 1977年
  43. G・H・W・ブッシュ 1981年
  44. クエール 1989年
  45. ゴア 1993年
  46. チェイニー 2001年
  47. バイデン 2009年
  48. ペンス 2017年
  49. ハリス 2021年
関連項目 : アメリカ合衆国副大統領 - アメリカ合衆国の歴史 - ホワイトハウス - アメリカ合衆国大統領 - アメリカ合衆国次期副大統領
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