イタリア領キレナイカ

イタリア領キレナイカ
برقة الايطالية (アラビア語)
オスマン帝国領トリポリタニア 1911年 - 1934年 イタリア領リビア
キレナイカの国旗 キレナイカの国章
国旗国章
キレナイカの位置
キレナイカの位置
公用語 イタリア語
アラビア語
宗教 イスラム教
カトリック
首都 ベンガジ
君主
1911年 - 1934年 ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世
総督(英語版)[note 1]
1911年 - 1911年オッタヴィオ・ブリッコラ(英語版)
1928年 - 1934年ロドルフォ・グラツィアーニ
変遷
イタリア・トルコ戦争 1911年11月5日
オスマン帝国の撤退1912年10月18日
キレナイカ植民地に1919年5月17日
トリポリタニアと行政的に統合1928年12月18日
イタリア領リビアの一部に1934年1月1日
現在リビアの旗 リビア
  1. ^ 1929年1月にピエトロ・バドリオがトリポリタニア・キレナイカ総督に就任した後、キレナイカ総督は副総督となった。
リビアの歴史

この記事はシリーズの一部です。
リビアの先史時代(英語版)
古代
キュレネ植民都市(アポイキア) 前630頃?-前323
トリポリ(オエア)植民都市 前7C-前2C
プトレマイオス朝領 前630頃?-前76
共和制ローマ領アフリカ属州
クレタ・キレナイカ属州(英語版)
前323-前27
ローマ帝国領 前27-395
セウェルス朝 193-235
中世
ヴァンダル王国領 434-533
東ローマ帝国領アエギュプトゥス 533-643
ウマイヤ朝領 661-750
アッバース朝領 750-800
アグラブ朝領 800-909
ファーティマ朝領 909-973
ズィール朝領 973-1135
シチリア王国領 1135-1159
ムワッヒド朝領 1159-1207
ムハンマド・イブン・アブー・ハフスによる統治 1207-1221
ハフス朝領 1229-1510
近世
スペイン・ハプスブルク朝領 1510-1530
聖ヨハネ騎士団領 1530-1551
オスマン帝国領(英語版) 1551-1711
カラマンリー朝 1711-1835
近現代
オスマン帝国領 1835-1912
イタリア領トリポリタニア 1911-1934
イタリア領キレナイカ 1911-1934
 • トリポリタニア共和国 1918-1922
イタリア領リビア 1934-1943
連合軍占領下のリビア(英語版) 1943-1951
 • イギリス占領下 1942-1951
 • フランス占領下 1943-1951
キレナイカ首長国 1949-1951
リビア王国 1951-1969
リビア・アラブ共和国 1969-1977
アラブ共和国連邦 1972-1977
大リビア・アラブ社会主義人民ジャマーヒリーヤ国 1977-2011
リビア国民評議会 2011-2012
リビア国 2012-現在

リビア ポータル

イタリア領キレナイカ(イタリアりょうキレナイカ、アラビア語: برقة الايطالية‎)は、1911年から1934年まで現在の東リビアに存在していたイタリア植民地である。この地域は、1911年のイタリア・トルコ戦争後にイタリア領トリポリタニアと並んでオスマン帝国から割譲された地域であった。

トリポリタニアとキレナイカの2つの植民地は、イタリア領リビアまたはイタリア領北アフリカ(Africa Settentrionale Italiana、またはASI)と呼ばれることもあった。この2つの名称は統合後も使われ、イタリア領リビアは新たに統合された植民地の正式名称となった。

1923年、サヌーシー教団に属する先住民の反乱軍が、イタリアのリビア入植に反対するリビア抵抗運動(英語版)を組織した。この反乱は、いわゆる「平和化作戦」の後、1932年にイタリア軍によって鎮圧され、キレナイカの住民の4分の1が死亡する結果となった[1]

1934年、イタリア領トリポリタニアと統合してイタリア領リビアとなった。

歴史

詳細は「イタリアによるリビアの植民地化(英語版)」を参照
イタリア領キレナイカの切手

イタリア領キレナイカとイタリア領トリポリタニアは、1911年、イタリア・トルコ戦争オスマン帝国領トリポリタニア(英語版)を征服した際に成立した。

1920年代、キレナイカはイタリア植民地軍と植民地支配からの独立を目指すリビア人反乱軍との戦闘の舞台となった。1931年、反乱軍の独立指導者オマール・ムフタールが捕らえられ、処刑された。

ファシスト・イタリアは、リビア占領の第一段階として、キレナイカにいくつかの強制収容所を確保した。植民地政府は1929年、反乱軍の支持を得るため、アフダル山地の住民をほぼ全面的に国外追放し始めた。

10万人以上の強制移住は、スルーク、エル・マグラン、アビヤル、エル・アゲイラの強制収容所で終わり、主にスペイン風邪などの疫病により、数万人が劣悪な環境の中で死亡した。 強制収容所は1934年以降、ファシスト政権がこの地域を完全に掌握すると解体され、地元のアラブ人社会との同化政策が開始された。この政策は成功し、1940年にはアラブ系リビア人による2つの植民地軍部隊が存在するほどであった。

イタリアはリビアのインフラに大規模な投資を行った(未回収のイタリアのために経済を発展させることが目的だった)[2]ベンガジでは、キレナイカ史上初めて、塩加工、石油精製、食品加工、セメント製造、皮なめし、醸造、海綿漁、マグロ漁などの製造設備が作られ、1930年代前半には「イタリアン・ベンガジ」と呼ばれるようになった。ベンガジ港は拡張され、近くには近代的な病院が建設された。また、新しい空港も建設された。

1934年、イタリア領キレナイカとイタリア領トリポリタニアはイタリア領リビアの一部となった。

人口統計

1930年代後半、キレナイカには沿岸部を中心に2万人以上のイタリア人入植者が入植しており、その結果、大規模な経済開発が行われた。

当初、イタリア側は現地人を内陸部の限界集落に追いやり、リビアの最も肥沃な土地にイタリア人を再定住させることを目的としていたが、1938年から新総督のイタロ・バルボが現地人の了解を得るためにこの方針を変えた。また、バルボが総督に就任するまで、イタリアはリビア人に十分な教育を施していなかった。1938年の小学校数はイタリア側(全人口の約15%)が81、リビア側(同75%以上)は97であった。

ヴェネツィアの獅子カピトリヌスの雌狼(英語版)をモチーフにした2本の円柱など、イタリア・ベンガジのパノラマが広がる、ヴィットリア通りに連なるカトリック大聖堂。

インフラストラクチャー

ベンガジ駅(1930年)

イタリアは1930年代を中心に、トリポリ-ベンガジ間の海岸道路、ベンガジ-バルチェ間、ベンガジ-ソルフ間の鉄道、ベンガジ港の拡張など、イタリア領キレナイカで大規模なインフラ整備事業を実施してきた。

1930年代には、キレナイカ沿岸にイタリア人とリビア人に必要な通信手段(インフラ)を備えた村が設立された[3]

主な軍事・政治的展開

キレナイカを訪問中のヴィットーリオ・エマヌエーレ3世ロドルフォ・グラツィアーニ総督の前で行われた、リビア植民地軍のパレード(1932年2月)
  • 1911年:イタリア・トルコ戦争勃発。イタリアがトブルクデルナベンガジを征服[4]
  • 1912年:ローザンヌ講和条約(イタリア語版)によりイタリア・トルコ戦争終結。オスマン帝国はトリポリタニアとキレナイカを割譲[4]
  • 1917年-21年:アクロマ(英語版)アル・ラジマ(英語版)、ブ・マリアムで締結された、イタリア側とサイイド・イドリース率いるサヌーシー教団側との一連の協定により、紛争が延期された[5]
  • 1923年:イタリア総督ルイジ・ボンジョバンニ(英語版)がサヌーシー教団との条約破棄を宣言し、イタリア軍はサヌーシー首長国の首都アジュダービヤーを占領し、キレナイカ再征服を開始する[6]オマール・ムフタールを中心としたサヌーシー教団の抵抗が始まる。
  • 1925年:イタリア・エジプト条約により、キレナイカ(後のリビア)・エジプト国境が定められる[7]
  • 1926年:ジャグバーブ征服[4]
  • 1927年冬~28年:トリポリタニアとキレナイカの政府間の調整の結果「29度線作戦」が開始され、シドラ湾を征服し、二つの植民地が結ばれる[8]
  • 1929年:ピエトロ・バドリオがトリポリタニアとキレナイカの総督となる。オマール・ムフタールとのシディ・ルーマ会談が始まるが、最終的には失敗に終わる[4]
  • 1931年:クフラを占領、リビアとエジプトの国境に有刺鉄線を建設、オマール・ムフタールを逮捕、そして処刑[6]
  • 1932年:バドリオがリビアのレジスタンスの終結を宣言[4]
  • 1934年:キレナイカがリビア植民地に編入される。

関連項目

  • イタリア領リビア
  • イタリア領キレナイカ総督の一覧(英語版)
  • イタリア領領リビアの鉄道(英語版)

脚注

  1. ^ Mann, Michael (2006). The dark side of democracy: explaining ethnic cleansing (2nd ed.). Cambridge, England: Cambridge University Press. p. 309 
  2. ^ General History of Africa, Albert Adu Boahen,Unesco. International Scientific Committee for the Drafting of a General History of Africa, page 196, 1990
  3. ^ (イタリア語) Chapter Libya-Cyrenaica
  4. ^ a b c d e Kalifa Tillisi, “Mu’jam Ma’arik Al Jihad fi Libia1911-1931”, Dar Ath Thaqafa, Beirut, Lebanon, 1973.
  5. ^ Mohammed Fouad Shukri, “As Senussiya Deen wa Daula”, Markaz ad Dirasat al Libiya, Oxford, 2005.
  6. ^ a b Rodolfo Graziani, "Cirenaica Pacificata", translated by: Mohammed Bashir el Ferjani, Al Ferjani publishing, Tripoli-Libya.
  7. ^ Jean Pichon, "La Question de Libye dans la Règlement de La Paix", translated by Ali Dhawwi, Markaz Jihad al Libiyeen lid Dirasat at Tarikhiya, Tripoli-Libya, 1991.
  8. ^ Attilio Teruzzi, "Cirenaica Verdi", translated by Kalifa Tillisi, ad Dar al Arabiya lil Kitab, 1991.