イヴァイロ (ブルガリア皇帝)

イヴァイロ
Ивайло
ツァール
在位 1277年 - 1280年

出生 不明
死去 1280年または1281年
配偶者 マリア・パレオロギナ・カンタクゼネ
王朝 第二次ブルガリア帝国
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イヴァイロブルガリア語: Ивайло、? - 1280年もしくは1281年)は、第二次ブルガリア帝国皇帝ツァール、在位:1278年 - 1279年)。ブルガリア語で「ラディッシュ」「レタス」を意味する「バルドコヴァ」(Bardokva)、ギリシア語で「キャベツ」を意味する「ラカナス」(Lakhanas)の渾名で呼ばれる[1]

1277年に農民反乱を起こし、ブルガリアの貴族たちに皇帝への登位を認めさせた。東ローマ帝国モンゴル国家であるジョチ・ウルスとの戦争に勝利し、数年の間帝位を保った。しかし、外国の反撃と貴族の反発に遭って失脚し、ジョチ・ウルスに追放され、暗殺された。

生涯

「神のお告げ」による蜂起

1270年代のブルガリアでは民衆の間で皇帝の権威は失墜しており、またブルガリア北部では長期にわたってモンゴルによる収奪が繰り返されていた[2]

イヴァイロは元々貧しい農民であり、雇われの豚飼いをして生計を立てていた。やがて彼は、自分がジョチ・ウルスの王族であるノガイの頻繁な侵入に晒されているブルガリアを救う任務を神から与えられたと妄想するようになる。仲間の豚飼いや農民たちに困苦からの脱出を説いて回り、1277年に義勇軍を率いてモンゴル軍に対して数度の勝利を収め、モンゴルの勢力をドナウ川北方に押し出した。モンゴルに対しての勝利をきっかけに皇帝の政治に不満を持っていた人間がイヴァイロの周りに集まり[2]、皇帝と貴族に反乱を起こしてタルノヴォに進軍した。

ブルガリア皇帝コンスタンティン・ティフはイヴァイロの討伐に向かうが敗北し、イヴァイロはコンスタンティンを捕らえて「生け贄の動物のように」処刑した [2]。コンスタンティン・ティフが率いていた皇帝軍と一部の貴族もイヴァイロの反乱軍に加わるが[3]、反乱は広範囲に拡大するが抵抗を続ける者もおり、首都のタルノヴォはコンスタンティンの未亡人マリア・パレオロゴス・カンタクゼノス(en:Maria Palaiologina Kantakouzene)とその子ミハイル(en:Michael Asen II of Bulgaria)の支配下で独立を保っていた。

しかし、イヴァイロの成功は東ローマ皇帝ミカエル8世に不安を抱かせる。当初ミカエル8世はイヴァイロの反乱を貴族間の争いと考えてイヴァイロに接近しようとし[3]、自分の娘を嫁がせて婚姻関係を結ぼうとした。しかし、反乱が反封建的な性質のものであると知ったミカエル8世は計画を変更し、東ローマの宮廷に滞在していたブルガリアの王族イヴァン・アセン3世に娘のイリニを嫁がせた。彼を帝位に就けるために軍隊を付けてブルガリアに送り返し[3]、イヴァン・アセン3世を通してブルガリアを服属させようとする[4]

皇帝即位後

イヴァン・アセン3世を擁する東ローマ軍の侵攻を知ったイヴァイロとマリアは和解し、結婚した。幼年のミハイルを廃嫡せず帝位の継承権を保障することを条件に、1278年にイヴァイロはブルガリアの帝位に就いた[3]。しかし、貴族たちの反対に遭って社会制度を改革することはできなかった[5]

それでもイヴァイロはイヴァン・アセン3世を擁立する南方からの東ローマ軍への迎撃を指揮し、北方から侵入するモンゴル軍の撃退にも成功する。1279年、イヴァイロはドナウ川沿岸部のドルスタル(現在のシリストラ)の要塞でモンゴルの大軍に3か月の間包囲を受けた。イヴァイロがタルノヴォを留守にしている間に彼が戦死した噂が流れ、ゲオルギ・テルテルを中心としたタルノヴォの貴族たちはイヴァン・アセン3世を新たな皇帝に擁立する。マリアとミハイルは東ローマに追放され、代わってイヴァン・アセン3世がタルノヴォに入城した[6]

1279年にイヴァイロは軍隊を率いてタルノヴォに戻るが、タルノヴォの守備隊の武装を解除することはできなかった。それでもなお、イヴァイロはデヴニャの戦い(英語版)で東ローマの大軍に勝利する。

1280年にイヴァン・アセン3世が反乱の鎮圧を諦めてタルノヴォから脱出した後、イヴァン・アセン3世の義兄弟であるゲオルギ・テルテルが皇帝に即位する。新たに出現したライバルであるゲオルギ1世はイヴァイロと敵対する貴族と連合し、イヴァイロは徐々に支持者を失っていく。疲弊した農民兵はイヴァイロの元を離れていき、武装も貧弱であったためにイヴァイロはゲオルギ・テルテルに敗北した[2]

1280年(あるいは1281年)、イヴァイロは帝位の奪還のため、従属と引き換えに援助を得るためにノガイの元に向かうが、イヴァン・アセン3世もノガイに援助を求めようとしていた。結局、ノガイは義兄弟であるイヴァン・アセン3世(両者はミカエル8世の娘と結婚していた)の求めに応じ、宴席の座でイヴァイロを殺害した。

死後

イヴァイロの死後も民衆は彼の名前を忘れられなかった[2]オスマン帝国バルカン半島に侵入した時代、コンスタンティノープルにイヴァイロを名乗る者が現れ、農民をオスマンとの戦いに駆り立てようとしたが、東ローマ皇帝によって投獄された[6]

家族

イヴァイロはマリア・パレオロギナ・カンタクゼネとの間に1人の娘をもうけた。娘の名前は不詳である。

脚注

  1. ^ ディミトロフ、イスーソフ、ショポフ『ブルガリア 1』、98頁
  2. ^ a b c d e 寺島「イバイロの蜂起」『東欧を知る事典』、32-33頁
  3. ^ a b c d ディミトロフ、イスーソフ、ショポフ『ブルガリア 1』、99頁
  4. ^ 森安、今井『ブルガリア 風土と歴史』、127頁
  5. ^ 森安、今井『ブルガリア 風土と歴史』、127-128頁
  6. ^ a b ディミトロフ、イスーソフ、ショポフ『ブルガリア 1』、100頁

参考文献

  • 寺島憲治「イバイロの蜂起」『東欧を知る事典』収録(平凡社、2001年3月)
  • 森安達也、今井淳子共訳編『ブルガリア 風土と歴史』(恒文社、1981年)
  • I.ディミトロフ、M.イスーソフ、I.ショポフ『ブルガリア 1』(寺島憲治訳、世界の教科書=歴史、ほるぷ出版、1985年8月)
  • John V. A. Fine, Jr., The Late Medieval Balkans, Ann Arbor, 1987.

関連項目

  • イヴァイロの反乱(ブルガリア語版、英語版)
先代
コンスタンティン・ティフ
ブルガリア皇帝
1278年 - 1279年
次代
イヴァン・アセン3世
大ブルガリア
ドゥロ家

クブラト605-665 / バトバヤン665-668 / アスパルフ668-681

第一次ブルガリア帝国
ドゥロ家

アスパルフ681-700頃 / テルヴェル700頃-721 / コルメシイ721-738 / セヴァル738-753

ヴォキル家 / ウガイン家

コルミソシュ753-756 / ヴィネフ756-760 / テレツ760-763 / サビン763-766 / ウモル766 / トクトゥ766-767 / パガン767-768 / テレリグ768-777

クルム家

カルダム777-803 / クルム803-814 / ドクム814-815 / ディツェヴグ814 / オムルタグ814-831 / マラミル831-852 / プレシアン1世836-852 / ボリス1世852-889 / ヴラディーミル (ラサテ)889-893 / シメオン1世893-927 / ペタル1世927-967 / ボリス2世967-971 / ロマン972-997

コミトプリ家

サムイル976-1014 / ガヴリル・ラドミール1014-1015 / イヴァン・ヴラディスラフ1015-1018 / ペタル・デリャン(ペタル2世)(反乱指導者)1040-1041 / コンスタンティン・ボディン(ペタル3世)(反乱指導者)1072

東ローマ帝国支配1018年 - 1185年

第二次ブルガリア帝国
アセン家

ペタル4世1185/6-1187/90 / イヴァン・アセン1世1187/90-1196 / イヴァンコ1196 / ペタル4世(復位)1196-1197 / カロヤン・アセン1197-1207 / ボリル1207-1218 / イヴァン・アセン2世1218-1241 / カリマン1世1241-1246 / ミハイル2世・アセン1246-1256 / カリマン2世1256-1257 / コンスタンティン・ティフ1257-1277 / イヴァイロ1277-1279 / イヴァン・アセン3世1279-1280

テルテル家
スミレツ家

スミレツ1292-1298 / イヴァン2世1298-1299

ジョチ家

チャカ1299-1300

テルテル家

テオドル・スヴェトスラフ1300-1322 / ゲオルギ2世テルテル1322-1323

シシュマン家

ミハイル3世シシュマン1323-1330 / イヴァン・ステファン1330-1331 / イヴァン・アレクサンダル1331-1371 / イヴァン・シシュマン1371-1393 / イヴァン・スラツィミル(ヴィディン公)1356-1396 / コンスタンティン(2世)(ヴィディン公)1396-1422

オスマン帝国支配1396年 - 1878年

ブルガリア公国
バッテンベルク家

アレクサンダル1879-1886

サクスコブルクゴツキ家

フェルディナント1887-1908

ブルガリア王国
サクスコブルクゴツキ家

フェルディナント1908-1918 / ボリス3世1918-1943 / シメオン2世1943-1946

※1946年、ブルガリア人民共和国成立
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