エドワード・ベアリング (初代レヴェルストーク男爵)

1888年9月にバニティ・フェア誌に描かれたレヴェルストーク卿の似顔絵

初代レヴェルストーク男爵エドワード・チャールズ・ベアリング: Edward Charles Baring, 1st Baron Revelstoke1828年4月13日 - 1897年7月17日)は、イギリスの銀行家、貴族。

ベアリング財閥の一門で19世紀後半にベアリングス銀行の経営にあたっていたが、無謀な南米進出を行って大きな損害を被った。

経歴

1828年4月13日ベアリングス銀行の創立者初代準男爵フランシス・ベアリングの三男ヘンリー・ベアリング(英語版)とその妻セシリア(旧姓ウィンダム)の間の次男としてロンドンに生まれる[1][2]

ラグビー校で学ぶ[2]

ベアリングス銀行の経営を見ていた従兄弟トマス・ベアリング(英語版)1873年に死去すると彼とラッセル・スタージス(英語版)が経営を主導する立場となった[3]1879年から1891年にかけてはイングランド銀行理事(英語版)にも就任する[2][4]

1885年6月30日には連合王国貴族爵位レヴェルストーク男爵に叙せられた[2][4]

男爵に叙された頃からベアリングス銀行内の経営主導権を強め、南米への無謀な事業拡大を推進した。とりわけアルゼンチンウルグアイチリへの進出に熱心でブエノスアイレス上下水道会社に多額のローンを行った。しかし1890年の革命の影響でアルゼンチンは利払い不能に陥ったため、ベアリングス銀行は破産の危機に瀕した[5]

イングランド銀行総裁ウィリアム・リダーデール(英語版)はベアリングス銀行の破産はシティの破産につながるとして救済に動き、他の銀行からの支援基金を取り付けてくれたおかげでベアリングス銀行は何とか経営を立て直すことができた[6]

1897年7月17日ロンドンメイフェアチャールズ通り(英語版)で死去した。爵位は生存している最年長の男子ジョン・ベアリング(英語版)が継承した[2]

栄典

爵位

1885年6月30日に以下の爵位を新規に叙される[2][4]

家族

ルイーザ・ブルティール(1839-1892)と結婚し、彼女との間に以下の10子を儲ける

  • 長男アーサー・ベアリング (1862) : 夭折
  • 次男ジョン・ベアリング(英語版) (1863-1929) : 第2代ベアリング男爵位を継承
  • 三男セシル・ベアリング (1864-1934) :第3代ベアリング男爵位を継承
  • 四男エバラード・ベアリング(英語版) (1865-1932) : 陸軍少将
  • 長女エリザベス・ベアリング (1867-1944) : 第5代ケンマレ伯爵(英語版)ヴァレンティン・ブラウン(英語版)と結婚
  • 次女マーガレット・ベアリング (1868-1906) : 第6代スペンサー伯爵チャールズ・スペンサーと結婚
  • 三女スーザン・ベアリング (1870-1961) : 初代準男爵ジェイムズ・リード(英語版)と結婚
  • 五男モーリス・ベアリング(英語版) (1874-1945) : 作家、陸軍少佐
  • 六男ヒューゴ・ベアリング (1876-1949) : 陸軍少佐
  • 七男ルパート・ベアリング (1878-?)

脚注

[脚注の使い方]

出典

  1. ^ Lundy, Darryl. “Henry Baring” (英語). thepeerage.com. 2016年2月18日閲覧。
  2. ^ a b c d e f Lundy, Darryl. “Edward Charles Baring, 1st Baron Revelstoke of Membland” (英語). thepeerage.com. 2016年2月18日閲覧。
  3. ^ 田中文憲 2008, p. 4.
  4. ^ a b c Heraldic Media Limited. “Revelstoke, Baron (UK, 1885)” (英語). Cracroft's Peerage The Complete Guide to the British Peerage & Baronetage. 2016年2月18日閲覧。
  5. ^ 田中文憲 2008, p. 4-5.
  6. ^ 田中文憲 2008, p. 5.

参考文献

  • 田中文憲「ベアリングズの崩壊: マーチャント・バンキングの終焉」『奈良大学紀要』第36号、奈良大学、2008年3月、1-20頁、ISSN 03892204、CRID 1520853833487548544。 
イギリスの爵位
先代
新設
初代レヴェルストーク男爵
1885年–1897年
次代
ジョン・ベアリング(英語版)