オーヴルチ

オーヴルチ
Овруч
座標 : 北緯51度19分28秒 東経28度48分29秒 / 北緯51.32444度 東経28.80806度 / 51.32444; 28.80806
歴史
建設 946年
(マグデブルク法) 1641年
旧名 ヴルチー
行政
 ウクライナ
  ジトーミル州の旗 ジトーミル州
 地区 オーヴルチ地区
 市 オーヴルチ
市長 Шваб Валерій Володимирович
地理
面積  
  市域 9[1] km2
人口
人口 (2011年現在)
  市域 16681人
    人口密度   1853人/km2
その他
等時帯 東ヨーロッパ時間 (UTC+2)
夏時間 東ヨーロッパ夏時間 (UTC+3)
郵便番号 11100 - 11109
市外局番 +380 4148
位置図
オーヴルチの位置(ウクライナ内)
オーヴルチ
オーヴルチ (ウクライナ)
公式ウェブサイト : http://ovruch.ovruch-rayvlada.org.ua/

オーヴルチウクライナ語: Овруч)はウクライナジトーミル州オーヴルチ地区(ru)の市である。オーブルチ地区の行政の中心地であり、コロステニ、カリンカヴィツィ(ru)、ヤニウ(ru)、ビロコロヴィチ(ru)をつなぐ鉄道路線の交点にあたる。自然地理的にはプリピャチ川水系のノルィーニ川(uk)に面している。

歴史

中世・近世

「ru:Овручский замок」および「ru:Овручское староство」も参照

年代記における最初の言及は、『原初年代記』の977年ドレヴリャーネ族の街「ヴルチー」として記述されたものである。この年、キエフ大公ヤロポルク1世が、キエフ大公位を巡る闘争の過程で弟のオレグ(ru)を攻めると、オレグはヴルチーへ逃れるも、街の堀に転落して死亡した。[注 1]。オレグは街に埋葬されたが、その後キエフへ運ばれた[注 2]。現在のオーヴルチにはオレグの碑がある。

12世紀 - 13世紀のオーヴルチは、ベルゴロド、ヴィシゴロドと同様に、キエフ公国分領公国オーヴルチ公国)としてキエフ大公の若い親族に分与されていた。統治者は主にスモレンスク公家の出身者だった。また11世紀 - 13世紀初頭のオーヴルチは、周辺地域のスレート産業に関連した手工業製品の生産の中心地だった。オーブルチ産スレート製自動紡車(ru)は、ルーシの諸公国、ポーランドヴォルガ・ブルガールヘルソネスなどへ流通する、広い販売市場を有していた[5]

1230年代末のモンゴルのルーシ侵攻において、オーヴルチはモンゴル帝国軍の侵略を受けた。その後、ジョチ・ウルスバスカクによって管理された。1362年、他の南部ルーシの地と共にリトアニア大公国の一部となった。1641年マグデブルク法を採用した。1793年第2次ポーランド分割によって帝政ロシアに組み込まれた。帝政ロシア時代末期の1911年にはニコライ2世がオーヴルチを訪問している[6][7]

近代・現代

文化

市には郷土歴史博物館があり、オーヴルチ城(ru)の敷地内に救世主顕栄大聖堂がある。また、オーヴルチの聖ヴァシリー教会(ru)はピョートル・ミロネグ(ru)(1100年代後半)によって作られた、モンゴルの侵攻以前から残る古刹である。1907年から1909年にかけてアレクセイ・シューセフが修復作業を手掛けた。

オーヴルチでは『夜明け』と『オーブルチの声』という2つの地方紙を出版している[注 3]。また、市の名を冠した小惑星・オーヴルチ(221073)(uk)がある[8]

ゆかりの著名人

  • オスタフィー・ダシュケヴィチ(uk):1472年頃 - 1535年:コサックヘトマン
  • マカリー・カニヴシクィー(uk):1605年頃 - 1678年:掌院
  • Stefano Ittar(ru):1724年 - 1790年:建築家。オーヴルチ生まれのイタリア人。
  • יעקבֿ-שמואל הלױ טרכטמן‎(ru):1831年 - 1925年:著作家。オーヴルチ生まれのユダヤ人。
  • ヴォロディームィル・ボホラズ(uk):1865年 - 1936年:民族誌学者。
  • オレクサンドル・ルホヴィー(uk):1904年 - 1962年:著作家。
  • アンドリー・マルィシコ(uk):1912年 - 1970年:詩人・文芸評論家。
  • スラミフ・ツィブリヌィク(uk):1913年 - 1996年:映画監督。
  • セメーン・カツ(uk):1915年 - 1985年:科学者・法学者。
  • ラルィサ・コジンツェヴナ(uk):1929年 - 2005年:水文学者。
  • オレクサンドル・ラヴルィノヴィチ(uk):1956年 - :政治家。

脚注

注釈

  1. ^ 『原初年代記』では、オレグがヤロポルクの子部下のスヴェネリド(ru)の子を殺したことを発端として憎しみあうようになったこと、スヴェネリドがヤロポルクに、(自分の子の敵討ちの意も含めて)オレグの領土を奪うようささやき続けたこと、オレグの死後、ヤロポルクはスヴェネリドの前で泣いたことなどが描かれている[2]
  2. ^ 1113年以降に書かれた[3]ラヴレンチー年代記』の記述では、オレグの遺体は今もオーヴルチにあると記されている[4]
  3. ^ 「夜明け」はロシア語: Зоря、「オーブルチの声」はロシア語: Овручский голосの直訳による。

出典

  1. ^ облікова картка на сайті Верховної Ради
  2. ^ 國本哲男『ロシア原初年代記』p86-88
  3. ^ 國本哲男『ロシア原初年代記』p337
  4. ^ 國本哲男『ロシア原初年代記』p88
  5. ^ Рыбаков Б. А. Овручские пряслица [Русские курганы XI—XIII вв.] // Докл. и сообщения исторического факультета МГУ. 1946а. Вып. 4.
  6. ^ Иоанн Глаголев. Древнейшая святыня в городе Овруче Волынской губернии. Житомир, Волынская губернская типография, 1912 г.
  7. ^ Киноплёнка о приезде Никола II в город Овруч
  8. ^ База данных JPL НАСА по малым телам Солнечной системы (221073)

参考文献

  • 國本哲男他訳 『ロシア原初年代記』 名古屋大学出版会、1987年。

外部リンク

ウィキメディア・コモンズには、オーヴルチに関連するカテゴリがあります。
  • Официальный сайт Овруцкого городского совета
  • Овруч — страницы истории
  • Городския поселения в Российской империи, Том 1, стр. 395—398
  • Słownik geograficzny Królestwa Polskiego i innych krajów słowiańskich › Tom VII › strona 773
  • Овруч @ Ukrainian.Travel
典拠管理データベース ウィキデータを編集
全般
  • VIAF
国立図書館
  • イスラエル
  • アメリカ
  • チェコ
その他
  • ウクライナ・インターネット百科事典