カール5世 (神聖ローマ皇帝)

カール5世 / カルロス1世
Karl V / Carlos I
神聖ローマ皇帝
スペイン国王
カール5世
在位 1516年 - 1556年(スペイン国王)
1519年 - 1556年(神聖ローマ皇帝)
戴冠式 1520年10月23日(ローマ王)[注 1]
1530年2月22日(イタリア王)
1530年2月24日(神聖ローマ皇帝)[注 2]
別号 カスティーリャ国王
レオン国王
アラゴン国王
マヨルカ国王
バレンシア国王
シチリア国王
サルデーニャ国王
ローマ王
イタリア王
オーストリア大公
ケルンテン公
クライン公
シュタイアーマルク公
ブルゴーニュ公
ブラバント公
リンブルフ公
ルクセンブルク公
ゲルデルン公
カタルーニャ公
バルセロナ伯
チロル伯
ブルゴーニュ伯
ナミュール辺境伯
フランドル伯
エノー伯
ホラント伯
ゼーラント伯
ズトフェン伯
アルトワ伯
シャロレー伯
サルダーニャ伯
ルシヨン伯
ジローナ伯
ウゾーナ伯
ベルガ伯
バザルー伯

出生 1500年2月24日
神聖ローマ帝国の旗 神聖ローマ帝国
フランドル伯領 ガン
死去 1558年9月21日
スペイン帝国
ユステ修道院
埋葬 スペイン帝国
エル・エスコリアル
エル・エスコリアル修道院
配偶者 イサベル・デ・ポルトゥガル・イ・アラゴン
子女 フェリペ2世
マリア
フェルナンド
フアナ
フアン
マルガリータ
フアン(異説あり)
家名 ハプスブルク家
王朝 ハプスブルク朝
父親 フィリップ美公
母親 カスティーリャ女王フアナ
サイン
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カール5世ドイツ語:Karl V / スペイン語:Carlos I,1500年2月24日 - 1558年9月21日)は、神聖ローマ皇帝(在位:1519年 - 1556年)にしてスペイン国王カルロス1世(在位:1516年 - 1556年)[注 3]。先代皇帝マクシミリアン1世の長男フィリップとスペイン女王フアナの嫡子で母語はフランス語。ルドルフ1世の雲孫、アルブレヒト1世の仍孫であり、フェリペ3世は孫であり曾孫であり、フェリペ4世は曾孫であり玄孫であり、レオポルト1世とルイ14世は玄孫であり来孫であり、カルロス2世は玄孫であり来孫であり昆孫であり、ヨーゼフ1世とカール6世とグラン・ドーファンは来孫であり昆孫であり、マリア・テレジアとブルゴーニュ公ルイとフェリペ5世とは昆孫であり仍孫であり、マリー・アントワネットとルイ15世とルイス1世とフェルナンド6世とカルロス3世は仍孫であり雲孫であり、カルロス4世は雲孫である。敬虔なカトリック教徒であり、ドイツ諸侯連合と化していた現実の帝国とは異なる中世的・普遍的なキリスト教帝国の理念を信じた。フランス王国と戦ってイタリアでの覇権を勝ち取り、1530年2月22日 ボローニャイタリア王カルロ5世として戴冠。2日後にはローマ教皇から戴冠された最後の神聖ローマ皇帝カール5世となった(1530年2月24日)。しかし、その間に帝国ではマルティン・ルターによる宗教改革が発生し、アウクスブルクの和議による妥協に追い込まれた。ヨーロッパ各地を転戦した無理が祟って晩年は体調を崩し、嫡子フェリペにスペイン王国を、弟フェルディナントに神聖ローマ帝国を譲り退位した。

血筋

ブルゴーニュ公・フィリップ4世とカスティーリャ女王・フアナの間に生まれた。母方の祖父母は結婚によってスペイン王国を誕生させ、のちにグラナダ王国を制圧しイベリア半島からイスラーム勢力を駆逐した「カトリック両王」ことアラゴン国王・フェルナンド2世およびカスティーリャ女王・イサベル1世であった。さらに父方の祖父母は神聖ローマ皇帝であるマクシミリアン1世と、かつてヴァロワ朝フランス王国とすら互角に渡り合った大国ブルゴーニュ公国の女公マリーという、当時のヨーロッパ王族のサラブレッドともいうべき血筋の生まれであった。

カール5世の統治領域の中心はスペインであり母・フアナもスペイン出身であったが、カール5世本人は自分の生まれ故郷のネーデルラントフランドルに愛着を持っており、言語の問題から当初は馴染めなかった[1]。現代スペインに続く金羊毛騎士団の継承・増員に見られるように、曾祖父・シャルルのブルゴーニュ公国の継承者という自覚も強かった。それでもカール5世はスペイン王位についてから熱心にスペイン語を覚え、スペインを統治した。ちなみに弟のフェルディナントは兄とは対照的に、スペイン生まれのスペイン育ちであるが中欧の神聖ローマ帝国の帝位に就くこととなった。

また、父方からハプスブルク家の血を受け継いだ神聖ローマ皇帝であるものの、ドイツ人とも言いがたい。カール5世はフランドルガンにて生を享けたが、母語は当時のフランドル貴族の公用語であったフランス語であった。

系譜

カール5世

ブルゴーニュ公 フィリップ4世

祖父
神聖ローマ皇帝

マクシミリアン1世

曽祖父
神聖ローマ皇帝

フリードリヒ3世

高祖父
オーストリア公

エルンスト

高祖母
ツィンバルカ
曽祖母
ポルトガル王女

エレオノーレ[1]

高祖父
ポルトガル国王

ドゥアルテ1世

高祖母
レオノール
祖母
ブルゴーニュ女公

マリー

曽祖父
ブルゴーニュ公

シャルル[2]

高祖父
ブルゴーニュ公

フィリップ3世

高祖母
イザベル
曽祖母
イザベル
高祖父
ブルボン公

シャルル1世

高祖母
アニェス

カスティーリャ王

フアナ

祖父
アラゴン国王

フェルナンド2世

曽祖父
アラゴン国王

フアン2世

高祖父
アラゴン国王

フェルナンド1世

高祖母
レオノール
曽祖母
フアナ
高祖父
ファドリケ
高祖母
マリアナ
祖母
カスティーリャ王イサベル1世
曽祖父
カスティーリャ王フアン2世
高祖父
カスティーリャ王エンリケ3世
高祖母
キャサリン
曽祖母
イザベル[3]
高祖父
ポルトガル王子

ジョアン

高祖母
イザベル

[1]の父はポルトガル国王ドゥアルテ1世。ジョアン1世の子で、弟にエンリケ航海王子や[3]の父ジョアン、妹に[2]の母イザベルがいる。よって、[1]と[2]と[3]は、共にジョアン1世を祖父とするいとこ同士となる。

生涯

生い立ち

少年時代のカール、ベルナールト・ファン・オルレイ
カール5世のアントワープ入城』、ハンス・マカルト

1500年にフランドルのガン(ヘント)で生まれ[2]、1517年までネーデルラントで育った。名前は曾祖父・ブルゴーニュ公シャルルにちなむ。共に暮らしていた両親は、1506年にカスティーリャ王位を継承するためスペインへ渡った。残されたカールは叔母のネーデルラント総督マルグリットに育てられた[3]。少年時代の個人教師には、後に教皇 ハドリアヌス6世となったオランダ人、ユトレヒトのアドリアンがおり、恵まれた環境で帝王学を学んだ[4]。さらに側近としてシェブレ侯やジャン・ル・ソヴージュ[5]、メルクリノ・ガッティナラ[6]らが従っていた。

1506年、スペインに渡ったばかりの父が急死すると、幼くしてネーデルラントの継承者ブルゴーニュ公となった。1516年に外祖父・フェルナンド2世が死去すると、スペイン語を解さなかったカールはブリュッセルにいながら母フアナと共同統治という形でカスティーリャ国王になった。それは同時にアラゴン王国ナバラ王国グラナダナポリ王国シチリア王国サルデーニャ王国スペイン領アメリカにいたる広大な領域の統治者となったことを意味していた[7]。1515年、父方の祖父・神聖ローマ皇帝 マクシミリアン1世によりハンガリー王国ボヘミア王国の王家であるヤギェウォ家との二重結婚が取り決められたが、アンナ王女がカールと弟フェルディナントのどちらの妃となるかはその時点では未定だった。結婚相手を将来の皇帝であるカールではなくフェルディナントに決めると、ハンガリー王国側からは猛反発を受けたが、フェルディナントとアンナにとっては幸福な結婚となった。

1517年に初めて「本国」スペイン入りし、トルデシリャスで母と再会すると[8]バリャドリッド摂政ヒメネス・デ・シスネロス枢機卿を解任して親政を開始。1519年に祖父・マクシミリアン1世が死去すると、オーストリアをはじめとするハプスブルク家の領土を継承した。さらに叔母にして育ての母・マルグリットやフッガー家の支援を得て[9]、1519年6月28日には生涯の宿敵・フランス国王 フランソワ1世を破り、フランクフルトに集まった選帝侯達が全票をカールに投じてローマ王に選出された[10]。しかしこの選挙資金のために統治早々にして莫大な負債を負っている。1520年には戴冠式の途上、イングランド王国に立ち寄って国王 ヘンリー8世夫妻と対面している。ヘンリー8世の王妃キャサリンはカールの叔母だったからである。その後、同年10月22日に伝統に従ってアーヘンでローマ王としての戴冠を受けた[11]。ローマ王となったカールは祖父マクシミリアン1世の例に倣って教皇からの戴冠を受けることなく神聖ローマ皇帝と見なされた。

しかし戴冠式の最中に、ローマ王選挙に使用する懐柔工作資金(スペイン王国の国家予算5年分)の国外持ち出し、「外国人君主と外国人顧問・側近」の統治に反発していたトレドセゴビアなどカスティーリャの諸都市が、カールがコルテスで新たに3年毎の40万ドゥカットの上納金と商品売上に対する税を課したことを端緒に一揆契約を結び、コムネロスの反乱が勃発した[12]。コムネロスの反乱は外国人幹部によるスペイン支配への抵抗から、貴族の特権に対する反乱へと変質していった[13] 。1521年にカールは1年余り続いたこの内乱を鎮圧したことで名実共にスペインの支配者となり[14]、強大な兵力を率いて生涯各地を転戦した。しかし、これ以降スペインはハプスブルク家の進める戦争への財物供出を余儀なくされ、カスティーリャ王国・アラゴン王国からの税収やインディオの奴隷労働によってポトシなどから収奪された金銀はスペインの為に使われる事はなく、ハプスブルク家の利害のために使われ諸外国に流出した[15]

フランスとの戦い、宗教改革への対応

ヤーコプ・ザイゼネッガー画、1532年
カール5世時代のハプスブルク家の領土。西ヨーロッパの大半を手中にした。
  カスティーリャ
  アラゴン
  ブルゴーニュ
  オーストリア
  神聖ローマ帝国の境界

カールは生涯フランス国王 フランソワ1世・アンリ2世父子との戦争を繰り返すことになる。初めは1521年北イタリアで争い[16]、後にイタリア全土を戦火に投じることになる。1527年にはカールのドイツ人傭兵達がローマで狼藉を働いた。これがローマ劫掠である[17]。このような行為はカールの意図するところではなかったとされるが、実際はカールが傭兵達に十分な報酬を支払わなかったことが原因だった。結果的にカールの軍勢を恐れた教皇クレメンス7世がイングランド国王 ヘンリー8世の結婚無効の申請を却下し、イングランドのローマ教会からの離反へとつながっていく。

神聖ローマ皇帝として、カール5世は当時論議となっていたマルティン・ルターの扱いにも苦慮し、身の安全を保障してヴォルムス帝国議会に召喚[18]。結果的にルターの主張を認めず、同調者達と共に法の保護を剥奪(帝国追放)した。ここで処罰とまではいかなくとも逮捕・拘束しておけばプロテスタントの興隆を食い止められただろうと後悔することになるが、若き皇帝は身の安全を保障した約束を破ることを良しとせず、スペインの統治・フランス国王との抗争に忙殺される中でルター派は広がっていった。

ヘンリー8世と同盟して行った対フランス戦争では1525年パヴィアの戦いでフランス国王 フランソワ1世を捕虜とすることに成功し、1526年にフランスの北イタリアにおける権益を全面放棄するというマドリード講和条約を承認させた。しかし、フランソワ1世は釈放されるとすぐに前言を翻してこの条約を破棄。そこで1528年サン・ジョルジョ銀行から融資を受けて、再びの抗争に入った[注 4]1529年にあらためてフランスとの間に貴婦人の和約と称されるカンブレー講和条約を[19]ローマ教皇庁との間にバルセロナ和約を結んで、北イタリアにおける権益を確保したが、その引き換えにブルゴーニュ公国を手放した[注 5]1530年にはボローニャイタリア王神聖ローマ皇帝としての正式な戴冠式を行った。ローマ教皇によって帝冠を受ける儀式はこれが最後になる。1524年に起きたドイツ農民戦争シュマルカルデン同盟の成立に際しては手一杯だったカール5世は、弟のフェルディナントを代行としてドイツ地方における政務を委託している(フェルディナントは1556年神聖ローマ皇帝に即位した)。

オスマン帝国との戦い

カール5世騎馬像』、ティツィアーノ・ヴェチェッリオ画、1548年

やがてカール5世は、ヨーロッパを圧迫していたオスマン皇帝スレイマン1世との戦いにも身を投じるようになる。当時、地中海ではオスマン帝国艦隊が制海権を握り、陸上では1529年ウィーンが包囲されるまでになっていた(第一次ウィーン包囲)。しかしカール5世は1535年チュニスにおいて勝利し(チュニス征服)[20]1536年には宿敵フランソワ1世と対オスマン帝国同盟を結んだ。フランスがオスマン帝国と単独講和してもカール5世は和睦しなかったが、1538年プレヴェザの海戦でローマ教皇・ヴェネツィア共和国と結ぶも敗退し、地中海の制海権を失う。最終的に1543年にフランスとはクレピーの和約を結び[21]、戦費の増大のためにオスマン帝国とも講和せざるを得なくなった。これにより、オスマン帝国との決着は息子のフェリペ2世に引き継がれることとなった。

トリエント公会議と宗教和解への努力

カール5世は宗教問題解決のため、公会議の実施に尽力し、1545年トリエント公会議の開会でその努力は実を結んだ[22]。公会議はカール5世の意図したルター派のカトリックへの改宗という成果はなかったが、カトリック教会の対抗改革の頂点となり、カトリック教会再生の契機となった。

その間もドイツではシュマルカルデン同盟との戦いが続いていたが、ザクセン公 モーリッツを味方に引き入れたことによって、戦況はカール5世に有利に傾き、1547年4月24日ミュールベルクの戦いで決定的な勝利を収めた[23]。同盟の2人の中心的指導者ザクセン選帝侯 ヨハン・フリードリヒとヘッセン方伯 フィリップ1世を虜囚とすることに成功した。これ以上の内戦の激化を危惧したカール5世は1548年アウクスブルク暫定規定(Interim)を発令し、カトリックとプロテスタントのドイツにおける共存を提案した[24]。しかし1552年3月カールの新教に対する強圧的な態度に反発したモーリッツの襲撃を受けて逃亡、戦勝による優位を失った。この結果8月にルター派を容認する旨の和平交渉が結ばれ(パッサウ条約)、これを原型に1555年アウクスブルクの和議が結ばれることになる[25]

カール5世宮

カール5世宮はアルハンブラ宮殿の中に建てられたカール5世の宮殿である。この宮殿は画家のペードロ・マチューカが1526-27年にデザインした。工事は1568年まで行われた。

カール5世宮は正方形から構成されていて、正方形の一つの角を切り落として八角形のオラトリー(祈祷室)になっている。4つの入り口は正方形の各側面の中央に配置されていて、中央の円形中庭へ導ていくつくりになっている。この円形中庭はペードロ・マチューカがなくなった後にその子のルイス・マチューカによって建造されたがペードロのデザインに従って作られている。宮殿には2つの特色がある。1つ目は円形中庭の壁面構成は2層のドリス式イオニア式のオーダが重ねて作られている。スペインではプラテレスコ様式が主流であったためそれとは異なった純粋なルネサンス的建築である。2つ目はアーケードではなく、まっすぐなエンタブラチュアが使用されていることである。

ムーア人の反乱によって工事は中断され、カール5世宮は未完成のままに終わった。その後、紆余曲折を経て1930年に完成し、カール5世没後400年記念の1958年、グラナダ美術館が移転した。

退位と晩年

1548年の国事勅定ではネーデルラント17州のスペイン王国およびフランスからの分離独立を認めている。さらに1550年には「バリャドリッド論争」の名で知られる、アメリカ先住民の地位とインディアス問題に関する審議会を開いている。これは、インディオの人権問題をたびたび告発してきたラス・カサスらの長年の活動が実ったともいえるものである。最終的にエンコミンダの世襲化の導入が阻止されるなど、ラス・カサスの努力が報われる形となり、アメリカ先住民への不当な行為の撤廃を目指した、当時のヨーロッパ社会では非常に画期的な審議会となった。

1555年、長年の痛風及び統治と戦争に疲れたカール5世は、ついに退位を決意する[26][27]。フェリペだけでなく、弟フェルディナント、姉エレオノーレ、妹マリアも出席したブリュッセルでの退位式では、「余はドイツへ9回、スペインへ6回、イタリアへ7回、フランドルへ10回、フランスへ4回、イギリス、アフリカへ2回づつ、合計40回におよぶ旅をした。(略)これまで余は、経験不足や、あまりの向こう見ずさなどによって、多くの過ちを犯してきた。しかし、決して誰かを傷つけようという意図は持っていなかった。もし万一、そんなことがあったとすれば、ここに許しを請いたい」と言って、涙で演説がとぎれたという[28]

両親から受け継いだスペイン・ネーデルラント関係の地位と領土は全て息子のフェリペ2世に譲り、父方の祖父から受け継いだオーストリア・神聖ローマ帝国関係の地位と領土は弟のフェルディナント1世に継承させた。これをもって、ハプスブルク家はオーストリア・ハプスブルク系[注 6]スペイン・ハプスブルク系に分裂することになった。この頃すでに神経衰弱気味であったといわれているカール5世は、スペインのユステ修道院に隠棲し、1558年に58歳で亡くなった。晩年の10年ほどは常に痛風の激痛に悩まされていた。

容姿

両親の血を引いて生まれつき顎の筋力が弱く、下顎前突症であり、また幼少期の病気により鼻腔が閉塞気味であったため、多くの肖像画でも見られる通り、一見すると非常に下顎が突出しているように見え、常に口の開いた状態だったとされている。

子女

ティツィアーノ・ヴェチェッチオの『ポルトガル王女イザベルの肖像』。プラド美術館所蔵。

1526年3月10日にセビリアの王宮で、ポルトガル国王 マヌエル1世の王女で、互いに母方の従兄妹であるイサベルと結婚した[29]。前年の1525年にイサベルの兄ジョアン3世とカール5世の妹カタリナが結婚するという二重結婚であった。また、カール5世の姉レオノールは1518年にマヌエル1世の3番目の王妃となったが、マヌエル1世とは1521年に死別していた。

イサベルとの間には3男2女が生まれた。うち男子2人は夭逝した。

  • フェリペ2世(1527年 - 1598年) - スペイン国王・ポルトガル国王
  • マリア(1528年 - 1603年) - 神聖ローマ皇帝 マクシミリアン2世の皇后
  • フェルナンド(1530年)
  • フアナ(1535年 - 1573年) - ポルトガル国王 ジョアン3世の子 ジョアン・マヌエル王太子妃
  • フアン(1539年)

人の良い性格であったため、貴族身分の母から庶子が生まれれば認知し、商人・工人身分の母から子が生まれれば修道院などへ入れた。うち有名なのは、ヨハンナ・ファン・デル・ヘインストが儲けたマルガリータ(1522年 - 1586年)と、バルバラ・ブロムベルクが儲けたレパント海戦の英雄ドン・フアン・デ・アウストリア(1547年 - 1578年)である。事跡の不明な子女としては、祖父フェルナンド2世の後妻ジェルメーヌ・ド・フォワが儲けた女子イサベル (esと夭折した子、オルソリーナ・デッラ・ペンナが儲けた女子タデア、母不詳の女子フアナ、などが知られている。

人物

カール5世は必ずしもフランス人の血を色濃く引いているわけではなかったが、フランスパリをこよなく愛した。当時の貴族の常として、西欧最大の都市にして西ヨーロッパ社交界の中心都市であったパリに数回滞在しており、フランス社交界でも「シャルル・カン」(フランス語: Charles Quint)として知られていた。父・フィリップも親仏派だったといわれるが、カール5世は「パリはもはや都市というより、一つの世界だ」(ラテン語: Lutetia non urbs, sed orbis.)と言ったと伝えられる。最もよく使ったのもフランス語だったが、皮肉なことに政治的にはフランス国王と生涯にわたり激しい対立関係にあった。

スペイン国王として、また神聖ローマ皇帝として、生涯かけてヨーロッパ全土を回り、北アフリカにまで足を伸ばしている。多言語話者であったと言われており、カール5世の言葉として伝えられる有名なものに"I speak Spanish to God, Italian to women, French to men and German to my horse." 「スペイン語は神への言葉、イタリア語は女性への言葉、フランス語は男性への言葉、ドイツ語は馬への言葉」というものがある。しかし、実際にカール5世が不自由なく完璧に話すことができたのは、母語のフランス語のほかは、スペイン統治者として本格的に学習・使用したスペイン語くらいであった。ドイツ語とイタリア語については完全ではなく、ラテン語も話せたが不十分であった[30]

称号一覧

称号がすべてついた場合、以下のようになる。

カール、神の恩寵によるローマ皇帝・永遠の尊厳者・ローマ王イタリア王・全スペインの国王及びカスティーリャ王国アラゴン国王レオン国王ナバラ国王グラナダ王トレド王バレンシア国王ガリシア国王マヨルカ国王セビーリャ王・コルドバ王・ムルシア王ハエン王アルガルヴェ国王アルヘシラス王ジブラルタル王カナリア諸島の王・両シチリア国王及びサルデーニャ国王コルシカ王エルサレム国王東インド及び西インドの王・大洋と島々の君主・オーストリア大公ブルゴーニュ公ブラバント公ロレーヌ公シュタイアーマルク公ケルンテン公クライン公リンブルフ公ルクセンブルク公ヘルダーラント公アテネ公・ネオパトラス公・ヴュルテンベルク公アルザス辺境伯・シュヴァーベン公アストゥリアス公カタルーニャ公フランドル伯ハプスブルク伯・チロル伯ゴリツィア伯・バルセロナ伯アルトワ伯・ブルゴーニュ伯エノー伯ホラント伯・ゼーラント伯・フェレット伯・キーブルク伯・ナミュール伯ルシヨン伯サルダーニャ伯ズトフェン伯・神聖ローマ帝国の辺境伯・ブルガウ辺境伯・オリスターノ辺境伯・ゴチアーノ辺境伯・フリジアヴェンドポルデノーネバスク・モリン・サラン・トリポリメヘレンの領主。

年表

カール5世が登場するフィクション

  • カール5世 (オペラ) - エルンスト・クルシェネクが作曲した、カール5世を題材としたオペラ
  • カルロス〜聖なる帝国の覇者〜 - カルロス1世(カール5世)を主人公としたスペインのテレビドラマ。

脚注

[脚注の使い方]

注釈

  1. ^ 実質ドイツ王。先代マクシミリアン1世は教皇からの戴冠なく皇帝を名乗り、以後選帝侯に選ばれたローマ王(ドイツ王)は「選ばれたローマ皇帝」を称した。
  2. ^ カール大帝以来、皇帝は教皇による戴冠を経て即位する伝統があった。
  3. ^ 欧米語では、欧米の歴史上の人物の名前は自国語で表すことが多く、この人物の名はドイツ語ではカール、スペイン語ではカルロスであるが、スペインではCarlos I de España、Carlos V de Alemania(カルロス・プリメーロ・デ・エスパーニャ、カルロス・キント・デ・アレマニア)のように呼ぶ。このような場合、日本語では各君主号に関連する言語における名前で呼ぶことが通常であるため皇帝としてはドイツ語名で、スペイン国王としてはスペイン語名で呼ぶことが通常である。
  4. ^ この間にローマ劫掠事件も起こった
  5. ^ ブルゴーニュ伯領・フランシュ=コンテ地域圏は保持
  6. ^ のちのハプスブルク=ロートリンゲン家

出典

  1. ^ 菊池、p. 196
  2. ^ 江村 1992、p. 10
  3. ^ 江村 1992、p. 12
  4. ^ 江村 1992、p. 13
  5. ^ 江村 1992、p. 16
  6. ^ 江村 1992、p.32
  7. ^ 江村 1992、p. 19
  8. ^ 江村 1992、p. 23
  9. ^ 江村 1992、p. 33
  10. ^ 江村 1992、p. 34
  11. ^ 江村 1992、p. 38
  12. ^ 江村 1992、pp. 35-36
  13. ^ ガレアーノ、p. 78
  14. ^ 江村 1992、p. 37
  15. ^ ガレアーノ、pp. 75-77
  16. ^ 江村 1992、p. 47
  17. ^ 江村 1992、pp. 90-92
  18. ^ 江村 1992、p. 43
  19. ^ 江村 1992、p. 108
  20. ^ 江村 1992、pp. 148-150
  21. ^ 江村 1992、p.224
  22. ^ 江村 1992、p. 237
  23. ^ 江村 1992、pp. 268-269
  24. ^ 江村 1992、p. 280
  25. ^ 江村 1992、pp. 326-327
  26. ^ 江村 1992、p. 327
  27. ^ 藤田、pp. 40-41
  28. ^ 江村 1992、pp. 329-331 / 江村 2013、pp. 354-356
  29. ^ 江村 1992、pp. 83-84
  30. ^ ドミンゲス・オルティス、pp. 152-153

参考文献

  • 江村洋『カール5世 中世ヨーロッパ最後の栄光』東京書籍、1992年7月。ISBN 978-4487753796。 
  • エドゥアルド・ガレアーノ 著、大久保光夫 訳『収奪された大地 ラテンアメリカ五百年新評論、1986年9月。ISBN 978-4794822345。 
  • 立石博高:編 『新版世界各国史16 スペイン・ポルトガル史』山川出版社、2000年6月
  • アントニオ・ドミンゲス・オルティス 著、立石博高 訳『スペイン 三千年の歴史』昭和堂、2006年。ISBN 978-4812206041。 
  • 新人物往来社編 『ビジュアル選書 ハプスブルク帝国』 新人物往来社、2010年
  • 藤田一成『皇帝カルロスの悲劇 ハプスブルク帝国の継承』平凡社、1999年。ISBN 978-4582841992。 
  • 谷克二『アルハンブラ宮殿 南スペイン三都物語』日経BP企画、2004年。ISBN 978-4-86130-005-9。 
  • 鈴木博之編集 『世界の建築 第6巻 ルネサンス・マニエリスム』 学習研究社 1983年初版発行 1984年第2刷発行
  • ピーター・マレー 訳 桐敷真次郎 『図説世界建築史 第十巻 ルネサンス建築』 本の友社 1998年9月10日 初版発行

関連項目

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ウィキメディア・コモンズには、カール5世 (神聖ローマ皇帝)に関連するメディアがあります。
爵位・家督
先代
マクシミリアン1世
神聖ローマ皇帝
1519年 - 1556年
次代
フェルディナント1世
爵位・家督
先代
新設
スペイン国王
1516年 - 1556年
次代
フェリペ2世
爵位・家督
先代
フェルナンド5世
フアナ
カスティーリャ国王
レオン国王

1516年 - 1556年
次代
スペイン王位へ統合
爵位・家督
先代
フェルナンド2世
アラゴン国王
マヨルカ国王
バレンシア国王
カタルーニャ公
バルセロナ伯
サルダーニャ伯
ルシヨン伯
ジローナ伯
ウゾーナ伯
ベルガ伯
バザルー伯

1516年 - 1556年
次代
スペイン王位へ統合
爵位・家督
先代
フェルナンド
ナバラ国王
(南部)

1516年 - 1556年
次代
スペイン王位へ統合
爵位・家督
先代
フェルディナンド3世
ナポリ国王
1516年 - 1554年
次代
フィリッポ1世
爵位・家督
先代
フェルディナンド2世
シチリア国王
1516年 - 1554年
次代
フィリッポ1世
爵位・家督
先代
フェルディナンド2世
サルデーニャ国王
1516年 - 1556年
次代
フィリッポ2世
爵位・家督
先代
空位
ローマ王
1519年 - 1556年
次代
空位
爵位・家督
先代
マッシミリアーノ1世
イタリア王
1530年 - 1556年
次代
空位
爵位・家督
先代
マクシミリアン1世
オーストリア大公
1519年 - 1521年
次代
フェルディナント1世
爵位・家督
先代
マクシミリアン1世
ケルンテン公
1519年 - 1521年
次代
フェルディナント1世
爵位・家督
先代
マクシミリアン1世
クライン公
1519年 - 1521年
次代
フェルディナント1世
爵位・家督
先代
マクシミリアン1世
シュタイアーマルク公
1519年 - 1521年
次代
フェルディナント1世
爵位・家督
先代
マクシミリアン1世
チロル伯
1519年 - 1521年
次代
フェルディナント1世
爵位・家督
先代
フィリップ4世
ブルゴーニュ公
1506年 - 1556年
次代
フィリップ5世
爵位・家督
先代
フィリップ3世
ブラバント公
1506年 - 1555年
次代
フィリップ4世
爵位・家督
先代
フィリップ3世
リンブルフ公
1506年 - 1555年
次代
フィリップ4世
爵位・家督
先代
フィリップ2世
ルクセンブルク公
1506年 - 1556年
次代
フィリップ3世
爵位・家督
先代
フィリップ6世
ブルゴーニュ伯
1506年 - 1556年
次代
フィリップ7世
爵位・家督
先代
マクシミリアン
ナミュール辺境伯
1519年 - 1556年
次代
フィリップ5世
爵位・家督
先代
フィリップ4世
フランドル伯
1506年 - 1555年
次代
フィリップ5世
爵位・家督
先代
フィリップ2世
エノー伯
1506年 - 1555年
次代
フィリップ3世
爵位・家督
先代
フィリップ2世
ホラント伯
ゼーラント伯

1515年 - 1555年
次代
フィリップ3世
爵位・家督
先代
ヴィルヘルム2世
ゲルデルン公
ズトフェン伯

1543年 - 1555年
次代
フィリップ2世
爵位・家督
先代
フィリップ4世
アルトワ伯
1506年 - 1556年
次代
フィリップ5世
爵位・家督
先代
マルグリット
シャロレー伯
1530年 - 1558年
次代
フィリップ4世
カロリング朝
  • カール1世800-814
  • ルートヴィヒ1世813-840
  • ロタール1世817-855
  • ルートヴィヒ2世850-875
  • カール2世875-877
  • カール3世881-887
  • グイード1891-894
  • ランベルト1891-898
  • アルヌルフ896-899
  • ルートヴィヒ3世2901-915
  • ベレンガル3915-924
ザクセン朝
  • オットー1世962-973
  • オットー2世967-983
  • オットー3世996-1002
  • ハインリヒ2世1014-1024
ザーリアー朝
  • コンラート2世1027-1039
  • ハインリヒ3世1046-1056
  • ハインリヒ4世1084-1105
  • ハインリヒ5世1111-1125
  • ロタール3世41133-1137
ホーエンシュタウフェン朝
  • フリードリヒ1世1155-1190
  • ハインリヒ6世1191-1197
  • オットー4世51209-1215
  • フリードリヒ2世1220-1250
ルクセンブルク家
  • ハインリヒ7世1312-1313
  • ルートヴィヒ4世61328-1347
  • カール4世1355-1378
  • ジギスムント1433-1437
ハプスブルク家
  • フリードリヒ3世1452-1493
  • マクシミリアン1世1508-1519
  • カール5世1530-1556
  • フェルディナント1世1558-1564
  • マクシミリアン2世1564-1576
  • ルドルフ2世1576-1612
  • マティアス1612-1619
  • フェルディナント2世1619-1637
  • フェルディナント3世1637-1657
  • レオポルト1世1658-1705
  • ヨーゼフ1世1705-1711
  • カール6世1711-1740
  • カール7世61742-1745
ハプスブルク=ロートリンゲン家
  • フランツ1世71745-1765
  • ヨーゼフ2世1765-1790
  • レオポルト2世1790-1792
  • フランツ2世1792-1806
アブスブルゴ朝

カルロス1世1516-1556 / フェリペ2世1556-1598 / フェリペ3世1598-1621 / フェリペ4世1621-1665 / カルロス2世1665-1700

ボルボン朝

フェリペ5世1700-1724 / ルイス1世1724 / フェリペ5世(復位)1724-1746 / フェルナンド6世1746-1759 / カルロス3世1759-1788 / カルロス4世1788-1808 / フェルナンド7世1808

ボナパルテ朝

ホセ1世1808-1813

ボルボン朝

フェルナンド7世(復位)1813-1833 / イサベル2世1833-1868

サボヤ朝

アマデオ1世1870-1873

第一共和政
1873-1874

ボルボン朝

アルフォンソ12世1874-1885 / アルフォンソ13世1886-1931

第二共和政
1931-1939

ボルボン朝

フアン・カルロス1世1975-2014 / フェリペ6世2014-現在

カテゴリ カテゴリ
ヒメノ朝

フェルナンド1世1037-1065 / サンチョ2世1065-1072 / アルフォンソ6世1072-1109 / ウラカ1109-1126

ボルゴーニャ朝

アルフォンソ7世1126-1157 / サンチョ3世1157-1158 / アルフォンソ8世1158-1214 / エンリケ1世1214-1217 / ベレンゲラ1217 / フェルナンド3世1217-1252 / アルフォンソ10世1252-1284 / サンチョ4世1284-1295 / フェルナンド4世1295-1312 / アルフォンソ11世1312-1350 / ペドロ1世1350-1369

トラスタマラ朝

エンリケ2世1369-1379 / フアン1世1379-1390 / エンリケ3世1390-1406 / フアン2世1406-1454 / エンリケ4世1454-1474 / イサベル1世1474-1504 / フェルナンド5世(共同王)1475-1504 / フアナ1504-1555

アブスブルゴ朝

フェリペ1世(共同王)1506 / カルロス1世1516-1556 / フェリペ2世1556-1598 / フェリペ3世1598-1621 / フェリペ4世1621-1665 / カルロス2世1665-1700

ボルボン朝

フェリペ5世1700-1715

※1715年、スペイン王位へ統合
カテゴリ カテゴリ
ヒメノ朝

ラミロ1世1035-1063 / サンチョ・ラミレス1063-1094 / ペドロ1世1094-1104 / アルフォンソ1世1104-1134 / ラミロ2世1134-1137 / ペトロニラ1137-1164

バルセロナ朝

アルフォンソ2世1164-1196 / ペドロ2世1196-1213 / ハイメ1世1213-1276 / ペドロ3世1276-1285 / アルフォンソ3世1285-1291 / ハイメ2世1291-1327 / アルフォンソ4世1327-1336 / ペドロ4世1336-1387 / フアン1世1387-1396 / マルティン1世1396-1410

トラスタマラ朝

フェルナンド1世1412-1416 / アルフォンソ5世1416-1458 / フアン2世1458-1479 / エンリケ4世(対立王)1462-1463 / ペドロ5世(対立王)1463-1466 / レナト1世(対立王)1466-1472 / フェルナンド2世1479-1516 / フアナ1516-1555

アブスブルゴ朝

カルロス1世1516-1556 / フェリペ1世1556-1598 / フェリペ2世1598-1621 / フェリペ3世1621-1665 / カルロス2世1665-1700

ボルボン朝

フェリペ4世1700-1705

アブスブルゴ朝

カルロス3世1705-1714

※1715年、スペイン王位へ統合
カテゴリ カテゴリ
イニゴ家
ヒメノ家

サンチョ1世ガルセス905-925 / ヒメノ・ガルセス925-931 / ガルシア1世サンチェス931-970 / サンチョ2世ガルセス970-994 / ガルシア2世サンチェス994-1004 / サンチョ3世ガルセス1004-1035 / ガルシア3世サンチェス1035-1054 / サンチョ4世ガルセス1054-1076 / サンチョ5世ラミレス1076-1094 / ペドロ1世1094-1104 / アルフォンソ1世1104-1134 / ガルシア・ラミレス1134-1150 / サンチョ6世1150-1194 / サンチョ7世1194-1234

シャンパーニュ家

テオバルド1世1234-1253 / テオバルド2世1253-1270 / エンリケ1世1270-1274 / フアナ1世1274-1305

カペー家

フェリペ1世1284-1305 / ルイス1世1305-1316 / フアン1世1316 / フェリペ2世1316-1322 / カルロス1世1322-1328 / フアナ2世1328-1349

エヴルー家

フェリペ3世1328-1343 / カルロス2世1349-1387 / カルロス3世1387-1425 / ブランカ1世1425-1441

トラスタマラ家

フアン2世1425-1479 / カルロス4世(王位請求者)1441-1461 / ブランカ2世(王位請求者)1461-1464 / レオノール1479

フォワ家

フランシスコ1世1479-1483 / カタリナ1483-1517

アルブレ家

フアン3世(共同王)1484-1516 / エンリケ2世1517-1555 / フアナ3世1555-1572

ブルボン家

アントニオ(共同王)1555-1562 / エンリケ3世1572-1610 / ルイス2世1610-1620 / フランス王位へ統合

トラスタマラ家

フェルナンド1512-1516 / フアナ1516-1555 / スペイン王位へ統合

アンジュー朝

カルロ1世1282-1285 / カルロ2世1285-1309 / ロベルト1世1309-1343 / ジョヴァンナ1世1343-1382 / カルロ3世1382-1386 / ラディズラーオ1世1386-1389

ヴァロワ=アンジュー朝

ルイージ2世1389-1399

アンジュー朝

ラディズラーオ1世(復位)1399-1414 / ジョヴァンナ2世1414-1435

ヴァロワ=アンジュー朝

レナート1世1435-1442

トラスタマラ朝

アルフォンソ1世1442-1458 / フェルディナンド1世1458-1494 / アルフォンソ2世1494-1495

ヴァロワ朝

シャルル8世 (フランス王)1495

トラスタマラ朝

フェルディナンド2世1495-1496 / フェデリーコ1世1496-1501

ヴァロワ朝

ルイ-ジ3世1501-1504

トラスタマラ朝

フェルディナンド3世1504-1516

スペイン・ハプスブルク朝

カルロ4世1516-1556 / フィリッポ1世1556-1598 / フィリッポ2世1598-1621 / フィリッポ3世1621-1665 / カルロ5世1665-1700

ブルボン朝

フィリッポ4世1700-1707

オーストリア・ハプスブルク朝

カルロ6世1707-1735

ブルボン朝

カルロ7世1735-1759 / フェルディナンド4世1759-1806

ボナパルト朝
ブルボン朝

フェルディナンド4世(復位)1815-1816

※1816年、両シチリア王国成立
カテゴリ カテゴリ
オートヴィル朝
ホーエンシュタウフェン朝
アンジュー朝
  • カルロ1世1266-1282
アラゴン朝
  • ピエトロ1世1282-1285
  • ジャコモ1世1285-1296
  • フェデリーコ2世1296-1337
  • ピエトロ2世1337-1342
  • ルドヴィーコ1342-1355
  • フェデリーコ3世1355-1377
  • マリア1377-1401
  • マルティーノ1世1390-1409
  • マルティーノ2世1409-1410
トラスタマラ朝
  • フェルディナンド1世1412-1416
  • アルフォンソ1世1416-1458
  • ジョヴァンニ1世1458-1479
  • フェルディナンド2世1479-1516
スペイン・ハプスブルク朝
  • カルロ2世1516-1556
  • フィリッポ1世1556-1598
  • フィリッポ2世1598-1621
  • フィリッポ3世1621-1665
  • カルロ3世1665-1700
ブルボン朝
  • フィリッポ4世1700-1714
サヴォイア朝
オーストリア・ハプスブルク朝
  • カルロ4世1720-1734
ブルボン朝
アルボレア家
  • バリソーネ1世1164-1172
  • ホーヘンスタウフェン家
    • エンツォ1世1238-1272
    アラゴン家
    • ジャコモ1世1323-1327
    • アルフォンソ1世1327-1336
    • ピエトロ1世1336-1387
    • ジョヴァンニ1世1387-1396
    • マルティーノ1世1396-1410
    トラスタマラ家(アラゴン系)
    • フェルディナンド1世1412-1416
    • アルフォンソ2世1416-1458
    • ジョヴァンニ2世1458-1479
    • フェルディナンド2世1479-1516
    • ジョヴァンナ1世1504-1555
    スペイン・ハプスブルク家
    • カルロ1世1516-1554
    • フィリッポ1世1554-1598
    • フィリッポ2世1598-1621
    • フィリッポ3世1621-1665
    • カルロ2世1665-1700
    スペイン・ブルボン家
    • フィリッポ4世1700-1713
    オーストリア・ハプスブルク家
    • カルロ3世1713-1720
    サヴォイア(=ブレッセ)家
    サヴォイア(=カリニャーノ)家
    カテゴリ カテゴリ
    歴代ドイツ君主・盟主
    カロリング朝
    • (ピピン751-768
    • カール1世皇帝(768)-814
    • ルートヴィヒ1世皇帝814-840
    • ロタール1世皇帝840-843
    • ルートヴィヒ2世843-876
    • カールマン2世876-880
    • ルートヴィヒ3世876-882
    • カール3世皇帝876-887
    • アルヌルフ皇帝887-899
    • ルートヴィヒ4世899-911
    • 断絶
    • コンラート1世1911-918
    共同王
    • (カールマン1世768-771
    ザクセン朝
    • ハインリヒ1世919-936
    • オットー1世皇帝936-973
    • オットー2世皇帝973-983
    • オットー3世皇帝983-1002
    • ハインリヒ2世皇帝1002-1024
    共同王
    • オットー2世皇帝961-973
    対立王
    • バイエルン公アルヌルフ919-921
    • バイエルン公ハインリヒ2世984-985
    ザーリアー朝
    • コンラート2世皇帝1024-1039
    • ハインリヒ3世皇帝1039-1056
    • ハインリヒ4世皇帝1056-1105
    • ハインリヒ5世皇帝1105-1125
    • 断絶
    • ロタール3世2,皇帝1125-1137
    共同王
    • ハインリヒ3世1028-1039
    • ハインリヒ4世1053-1156
    • イタリア王コンラート1087-1098
    • ハインリヒ5世1198-1105
    対立王
    ホーエンシュタウフェン朝
    • コンラート3世1138-1152
    • フリードリヒ1世皇帝1152-1190
    • ハインリヒ6世皇帝1190-1197
    • フリードリヒ2世1197-1198
    • フィリップ1198-1208
    • 中断
    • オットー4世3,皇帝1208-1215
    • 再開
    • フリードリヒ2世皇帝(復位)1215-1220
    • ハインリヒ(7世)1220-1235
    • コンラート4世1237-1254
    共同王
    • ハインリヒ6世1169-1190
    • フリードリヒ2世1194-1197
    対立王
    • ヴェルフ家オットー1198-1208
    • シチリア王フリードリヒ1212-1215
    • ハインリヒ・ラスペ1246-1247
    • ホラント伯ヴィルヘルム1248-1254
    大空位時代
    • ホラント伯ヴィルヘルム1254-1256
    • コルンヴァル伯リヒャルト1257-1272
    対立王
    • カスティーリャ王アルフォンソ10世1257-1275
    非世襲期
    • ルドルフ1世41273-1291
    • アドルフ51292-1298
    • アルブレヒト1世41298-1308
    • ハインリヒ7世6,皇帝1308-1313
    • ルートヴィヒ5世7,皇帝1314-1347
    • カール4世6,皇帝1347-1378
    • ヴェンツェル61378-1400
    • ループレヒト71400-1410
    • ジギスムント6,皇帝1410-1437
    • アルブレヒト2世41438-1439
    共同王
    • フリードリヒ3世41325-1230
    • ヴェンツェル61376-1478
    対立王
    ハプスブルク家
    • フリードリヒ4世皇帝1440-1493
    • マクシミリアン1世皇帝1493-1519
    • カール5世皇帝1519-1556
    • フェルディナント1世皇帝1556-1564
    • マクシミリアン2世皇帝1564-1576
    • ルドルフ2世皇帝1576-1612
    • マティアス皇帝1612-1619
    • フェルディナント2世皇帝1619-1637
    • フェルディナント3世皇帝1637-1657
    • レオポルト1世皇帝1658-1705
    • ヨーゼフ1世皇帝1705-1711
    • カール6世皇帝1711-1740 | 断絶 | カール7世7,皇帝1742-1745
    共同王
    • マクシミリアン1世1486-1593
    • フェルディナント1世1531-1556
    • マクシミリアン2世1562-1564
    • ルドルフ2世1575-1676
    • フェルディナント3世1636-1637
    • フェルディナント4世1653-1654
    • ヨーゼフ1世1690-1705
    ハプスブルク=ロートリンゲン家
    • フランツ1世皇帝1745-1765
    • ヨーゼフ2世皇帝1765-1790
    • レオポルト2世皇帝1790-1792
    • フランツ2世皇帝(オーストリア皇帝フランツ1世)1792-1806
    ライン同盟
    連邦主席
    • オーストリア皇帝フランツ1世1815-1835
    • オーストリア皇帝フェルディナント1世1835-1848
    • ヨハン大公(帝国執政)1848-1849
    • オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世1850-1866
    • プロイセン王ヴィルヘルム1世(北ドイツ連邦)1867-1871
    ドイツ皇帝
    • プロイセン王ヴィルヘルム1世1871-1888
    • プロイセン王フリードリヒ3世1888
    • プロイセン王ヴィルヘルム2世1888-1918
    業績
    Portrait by Lucas Cranach der Ältere
    主題
    • アウグスブルク信仰告白
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