ジャールカンド解放戦線
ジャールカンド解放戦線 Jharkhand Mukti Morcha | |
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総裁 | シブ・ソレン |
成立年月日 | 1972年 |
本部所在地 | ラーンチー |
ローク・サバー議席数 | 3 / 543 (1%) |
ラージヤ・サバー議席数 | 1 / 245 (0%) |
政治的思想・立場 | 分離主義 |
シンボル | |
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ジャールカンド解放戦線(ジャールカンドかいほうぜんせん、英語:Jharkhand Mukti Morcha、JMM または Jharkhand Liberation Front、ヒンディー語:झारखंड मुक्ति मोर्चा)はインドの政党。ジャールカンド州を地盤とする地域政党だが、隣接するオリッサ州、西ベンガル州にも勢力を持つ。略称は「JMM」。
略歴・現状
ビハール州からの分離を求める「ジャールカンド運動」の中から、1972年に創設された。当初は、左翼指導者A.K.ロイの支持を受け、クルミ・カーストの指導者B.B.マハトを党首、サンタル族の指導者シブ・ソレン(英語版)を幹事長としていた。ところが次第にソレンが党内主導権を握るようになると、左翼勢力とは距離を置き、インド国民会議派(INC)と選挙協力を構築するようになる[2]。そのため現在でも、JMMは連邦レベルではINC主導の統一進歩同盟に加わっている。その一方で党内抗争も繰り返され、一部指導者が離脱していった[2]。
2000年、ビハール州からのジャールカンド州の分離が実現した。同年の州議会選挙でJMMは12議席を獲得し、インド人民党(BJP)に次ぐ第2党となった。2004年の連邦下院選挙では、州割当14議席の内5議席を獲得している。2005年の州議会選挙でも17議席でやはり第2党となり、いずれの政党も過半数を制し得なかった情勢もあって、ソレンが一時的に州首相となった。ところが不安定な政治情勢の中で、ソレンは短期間で辞任に追い込まれ、2008年に州首相に返り咲くも、これも同様に短い任期に終わっている。その結果、ジャールカンド州は大統領直轄統治下に置かれてしまった[3]。
2009年の連邦下院選挙では2議席に留まり、前回選挙の5議席から後退した。同年の州議会選挙では82議席中18議席を獲得、インド人民党(BJP)と同数の議席となった。多数派工作の結果、シブ・ソレンは3度目の州首相に就任したが、やはり不安定な情勢は変化せずに間もなく辞任、その後も大統領直轄統治が繰り返された。ただ、2013年7月からシブの息子であるヘマント・ソレン(英語版)が、2024年2月からはチャンパイ・ソレン(英語版)が州首相に就任し、現在も州政権を維持している。2014年連邦下院選挙ではBJPの躍進に直面したものの、前回と同数の2議席を辛うじて確保した。2019年連邦下院選挙では、1議席である。
注
参考文献
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政党連合 | 国民民主同盟(人民党など) - インド国家開発包括同盟(インド国民会議など) - 統一国民進歩同盟(左翼戦線・大衆社会党など) - 左翼戦線(インド共産党マルクス主義派など) |
全国政党 | |
地方(州単位)政党 | ドラーヴィダ進歩党 - 全インド・アンナー・ドラーヴィダ進歩党 - シヴ・セーナー - 全インド草の根会議派 - アカリ・ダル - テルグ・デサム党 - 全インド前進同盟 - サマジワディ党 - 革命社会党 - ジャナタ・ダル (世俗派) - ジャナタ・ダル (統一派) - ビジュ・ジャナタ・ダル - インド国民ローク・ダル - 全国ローク・ダル - ジャンムー・カシミール民族協議会 - ジャンムー・カシミール人民民主党 - ローク・ジャンシャクティ党 - ドラーヴィダ復興進歩党 - シッキム民主戦線 - シッキム革命戦線 - アソム人民会議 - 全インド統一民主戦線 - ボドランド人民戦線 - ジャールカンド解放戦線 - テランガーナ国民協会 - ケーララ会議派 - ミゾ国民戦線 - ナガランド人民戦線 - 労働者党 - ウッタラーカンド革命党 - インド共和党 - 全インド統一ムスリム評議会 - インド連合ムスリム連盟 - マハラシュトラ・ナヴニルマン・セーナー |
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