プレシェヴォ渓谷危機

プレシェヴォ渓谷危機

衝突の対象となった3つの自治体。南から順にプレシェヴォブヤノヴァツメドヴェジャ
戦争ユーゴスラビア紛争
年月日:1999年 - 2001年
場所ユーゴスラビア連邦共和国の旗 セルビア南部のプレシェヴォブヤノヴァツメドヴェジャの各自治体
結果:ユーゴスラビア連邦の勝利、反乱勢力は武装解除
交戦勢力
プレシェヴォ・メドヴェジャ・ブヤノヴァツ解放軍 ユーゴスラビア連邦共和国の旗 ユーゴスラビア
指導者・指揮官
ムハメト・ジェマイリ
リドヴァン・チャジミ・レシ 
ユーゴスラビア連邦共和国の旗 ニノスラヴ・クルスティッチ
ユーゴスラビア連邦共和国の旗 ゴラン・ラドサヴリェヴィッチ
ユーゴスラビア連邦共和国の旗 ミロラド・ウレメク
戦力
民兵 500人 ユーゴスラビア連邦共和国の旗 兵士 1,000人
ユーゴスラビア連邦共和国の旗 OSO隊員 100人
損害
死者: 20人-30人
降伏: 60人
ユーゴスラビア連邦共和国の旗 死者: 警察官8人
ユーゴスラビア紛争
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プレシェヴォ渓谷危機(プレシェヴォけいこくきき、セルビア語:Sukobi u okolici Preševa)は、1999年から2001年にかけて、当時ユーゴスラビア連邦共和国の一部であったセルビア共和国の南部にある、プレシェヴォ / プレシェヴァ(Preševo / Presheva)、ブヤノヴァツ / ブヤノツィ(Bujanovac / Bujanoci)、メドヴェジャ(Medvedja / Medvegja)の3自治体で発生した武力衝突であり、「プレシェヴォ・メドヴェジャ・ブヤノヴァツ解放軍」(UÇPMB)と称するアルバニア人の反乱勢力が、ユーゴスラビアの治安当局と武力衝突した。反乱の目的は、セルビア本土(中央セルビア)に属しながらも民族的にアルバニア人の住民が比較的多いプレシェヴォ渓谷の3つの自治体を、セルビアから切り離し、将来の独立したコソボへと統合することであった。

背景

緩衝地帯

1999年コソボ紛争の後、国際連合コソボ暫定行政ミッション(UNMIK)統治下となったコソボの州境からユーゴスラビア連邦共和国本土の側に幅5キロメートルの地上安全地帯(Ground Safety Zone; GSZ)が設定された。ユーゴスラビア連邦軍の部隊はこの地域をパトロールすることは認められず、軽武装の警察部隊のみが治安維持にあたるとされた。この緩衝地帯の中には、ブヤノヴァツ自治体に属し、アルバニア人が多数を占めるドブロシン / ドブロシニ(Dobrosin / Dobrosini)村が含まれていた。

プレシェヴォ・メドヴェジャ・ブヤノヴァツ解放軍

コソボ紛争後に公的には武装解除されたコソボ解放軍をモデルにした、新しい武装ゲリラが結成された。コソボとの州境に近い緩衝地帯では、ユーゴスラビアは警察部隊のみでの活動しか認められていなかったため、セルビア側からの報復を受ける危険性が比較的少なかった。

ゲリラの目的はプレシェヴォおよびブヤノヴァツ、さらにメドヴェジャの支配権を確立し、隣接するコソボやマケドニア共和国のアルバニア人地域と統合されるまでの間、維持することであった。

衝突

セルビア警察特殊作戦部隊の隊員(2009年)
セルビア陸軍第63空挺大隊(ユーゴスラビア連邦軍第63空挺旅団の後身)の隊員(2005年)

1999年6月21日から2000年11月12日までの間、294回の攻撃が記録され、うち246回はブヤノヴァツ、44回はメドヴェジャ、6回はプレシェヴォ自治体で発生した。攻撃によって14人が死亡(うち6人は民間人、8人は警官)、37人が負傷(2人の国連の職員、3人の市民、34人の警官)し、5人の民間人が拉致された。攻撃では、「解放軍」は主にアサルトライフル機関銃迫撃砲などのほか、RPG、手榴弾、対戦車地雷、対人地雷も用いられた[5]

2000年11月23日、4人のセルビアの警官が民兵との戦闘で死亡した[6]2001年2月18日、3人のセルビア人が対戦車地雷を自動車で踏んで死亡した[7]。この日のうちに、警察は被害にあった自動車を調査し、迫撃砲や対人火器による攻撃を受けた。警察は反撃し、ブヤノヴァツの広報によるとアルバニア人勢力に負傷者が出たと見られるとした[8]

国際的なメディアの関心を欠く中、ゲリラの活動の中心は南に隣接するマケドニア共和国へと移った。マケドニアでは、「解放軍」との強い関連があるとみられる民族解放軍がマケドニア政府に対して反乱を起こし、マケドニア紛争へと発展していた。

2001年5月15日、ユーゴスラビアは、緩衝地帯の外側にある最後のプレシェヴォ・メドヴェジャ・ブヤノヴァツ解放軍の拠点のあるオラオヴィツァ / ラホヴィツァ(Oraovica / Rahovica)を攻撃した。この攻撃はユーゴスラビア連邦軍とセルビア警察特殊部隊の混成であった。第78自動車化旅団がブラニェ(Vranje)から、警察部隊(PJPおよび特殊作戦部隊)がプレシェヴォから攻撃を加え、第63空挺旅団(63rd Paratroop Brigade)および第72偵察奇襲旅団(72nd Reconnaissance-commando Brigade "Hawks")が他の方面から包囲した。小規模なアルバニア人の民兵組織は、重武装のユーゴスラビアおよびセルビアの精鋭部隊と戦うことはできず、翌16日に降伏した[9]

ユーゴスラビア当局の公式発表では、負傷者はなく、14人から20人程度の反乱者が死亡したとしている。プレシェヴォ・メドヴェジャ・ブヤノヴァツ解放軍はこれを否定し、死亡したのは5人であったとしている[10]

村の住民のほとんどが村を去り、護衛のもとコソボやマケドニアへと移動した。脱出経路はふさがずに開放されていた。この直後、コソボの州境を超える際に、45人のアルバニア人のゲリラがKFORに降伏した[11]

地域の情勢が統制不能となっているとみた北大西洋条約機構(NATO)は、ユーゴスラビア連邦軍に対して、地上安全地帯への再進駐を5月24日に認め、また同時にUÇPMBにはKFORへの投降を呼びかけた。KFORは、武器を回収し成員の名前を控えた後に釈放することを約束した。

衝突の余波

セルビアの将軍で作戦を指揮したニノスラヴ・クルスティッチ(Ninoslav Krstić)とゴラン・ラドサヴリェヴィッチ(Goran Radosavljević)は、オラオヴィツァでの戦闘に対してNATOから賞を受けた。

衝突の後、地域は平常状態に戻った。5年後の2006年には、アルバニア人の政党が、10年にわたるボイコットに終止符を打ち、セルビア共和国の政界に復帰した[12]

脚注

  1. ^ Yugoslav troops advance in buffer zone, brace for backlash from top rebel's death Archived 2007年8月8日, at the Wayback Machine., Stars and Stripes, May 26, 2001
  2. ^ Number of Serbian soldiers in Presevo Valley during the conflict
  3. ^ UCPMB was officially a terrorist organization according to NATO and Serbian government
  4. ^ Detailed information about JSO activities in Presevo Valley during the conflict Archived 2012年8月21日, at the Wayback Machine.
  5. ^ Krstic, Ninoslav; Dragan Zivkovic. “Извођење операције решавања кризе на југу Србије изазване деловањем наоружаних албанских екстремиста (терориста)”. Vojno delo: p. 180. ISSN 0042-8426 
  6. ^ Four Serbian policemen killed
  7. ^ www.glas-javnosti.rs
  8. ^ CER | Serbia: Presevo peace agreement on the horizon?
  9. ^ NIN / Kost u grlu
  10. ^ Serbian forces push rebels out of Albanian village
  11. ^ Albanian rebels to defy deadline | World news | The Guardian
  12. ^ BBC NEWS | Europe | Albanians end boycott in Serbia

関連項目

外部リンク

  • Partos, Gabriel (2001年2月2日). “Presevo valley tension”. BBC News Online. http://news.bbc.co.uk/2/hi/europe/1043583.stm 2008年1月26日閲覧。 
背景
ユーゴスラビアの崩壊)
ユーゴスラビア社会主義連邦共和国の旗ユーゴスラビア連邦
民族統一主義
1991年 十日間戦争
スロベニアの独立)
参加勢力
関連事項
  • ブリオニ合意
1991年-1995年
クロアチア紛争
クロアチアの独立)
参加勢力
戦闘と事件
  • プリトヴィツェ湖群事件
  • ボロヴォ・セロの虐殺
  • 1991年5月ダルマチア反セルビア暴動
  • ダルマチアの戦い
  • ヴコヴァルの戦い
  • ヴコヴァルの虐殺
  • 兵舎の戦い
  • ドゥブロヴニク包囲
  • ロヴァスの虐殺
  • シロカ・クラの虐殺
  • ゴスピチの虐殺
  • サボルスコの虐殺
  • バチンの虐殺
  • オストク10作戦
  • シュカンブルニャの虐殺
  • '91オルカン作戦
  • ヴォチンの虐殺
  • ミリェヴツィ平原事件
  • マスレニツァ作戦
  • メダク・ポケット作戦
  • 稲妻作戦
  • ザグレブ・ロケット攻撃
  • '95夏作戦
  • 嵐作戦
国際連合等の活動
関連事項
1992年-1995年
ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争
ボスニア・ヘルツェゴビナ
 の独立と分割)
参加勢力
戦闘と事件
国際連合等の活動
関連事項
  • カラジョルジェヴォ会談(グラーツ合意)- ワシントン合意 - デイトン合意 - ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争での大量強姦 - ボスニア・ジェノサイド
1998年-1999年
コソボ紛争
コソボ自治州
 セルビアからの分離)
参加勢力
戦闘と事件
  • プレカズの攻撃
  • ロジャの戦い
  • ベラチェヴァツ炭鉱の戦い
  • ユニクの戦い
  • グロジャネの戦い
  • ゴルニェ・オブリニェの虐殺
  • パンダ・バーの虐殺
  • ラチャクの虐殺
  • ユーゴスラビア空爆
  • ポドゥイェヴォの虐殺
  • ヴェリカ・クルシャの虐殺
  • イズビツァの虐殺
  • アルバニア作戦
  • コシャレの戦い
  • ツスカの虐殺
  • スヴァ・レカの虐殺
国際連合等の活動
関連事項
2001年
マケドニア紛争
(アルバニア系住民の権利拡大)
参加勢力
国際連合等の活動
関連事項
関連人物
政治家
軍最高指導者
  • ヴェリコ・カディイェヴィッチ - マルティン・シュペゲリ - ジヴォタ・パニッチ - モムチロ・ペリシッチ - ヤンコ・ボベトコ - ミレ・ムルクシッチ - ラトコ・ムラディッチ - ラシム・デリッチ - セフェル・ハリロヴィッチ - アティフ・ドゥダコヴィッチ - アギム・チェク - ドラゴリュブ・オイダニッチ - リュベ・ボシュコスキ
その他の軍事指導者
その他の重要人物
関連項目
  • Category:ユーゴスラビア紛争
東ヨーロッパ
ウクライナ紛争
西ヨーロッパ
南東ヨーロッパ
ユーゴスラビア紛争
  • アルバニア暴動 (1997)
  • アルバニア・ユーゴスラビア国境事件 (1999)(en)
  • コソボ暴動 (2004)
  • マケドニアの民族間暴力 (2012)(en)
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