メイフラワー誓約

この浅浮き彫りは、メイフラワー誓約に署名する様子を表している。プロビンスタウンのブラッドフォード通り、ピルグリム記念碑の真下にある。
メイフラワー誓約への署名、エドワード・パーシー・モラン画、プリマス博物館に掲示
メイフラワー誓約、ブラッドフォードによる写し

メイフラワー誓約(メイフラワーせいやく、: Mayflower Compact)とは、メイフラワー号北アメリカに渡ったピルグリム・ファーザーズが、プリマス植民地で作成し、のちのアメリカ連邦制の基礎の一つとなった文書。1620年11月20日、乗船客100人以上のうち41人によって署名された[1]ユリウス暦11月11日[2])。メイフラワー盟約(書)もしくはメイフラワー契約(書)とも言われる。

誓約を作った理由

メイフラワー号に乗っていた植民者のほぼ半分は、イングランド国教会の意思ではなく独自の決断に従ってキリスト教信仰の自由を求める清教徒のうちの分離派(ピルグリム)だった。当初、 ロンドンのバージニア会社の出資により、イギリス王室から勅許された土地であるハドソン川河口を目指していた。しかし、天候により、それよりは遥か北にある現在のマサチューセッツ州に上陸する決断がなされた。

このことは、「異邦人」(大半は募集に応じたマーチャント・アドベンチャラーズで、植民地の立ち上げや統治をする働き手)の中から、バージニア会社の同意された領土に開拓地が作られるのではないので、「自分達の自由を行使する故に、誰も指揮する権限を持たない...」という声を上げさせることになった[3]。これを防ぐためにピルグリムたちは1つの政府を樹立することにした。

メイフラワー号の乗船客は1620年11月にプリマスで上陸した(この地名はジョン・スミス船長がこれ以前に名付けていた)。開拓者達はメイフラワー号が出港したイングランドデヴォン州にある主要港に因んでその開拓地を「プリマス」(“Plimouth”、歴史的には古英語の綴りで“Plimoth”としても知られる)と名付けた。

メイフラワー誓約は同時に多数決主義モデルに基づいており(ただし女性と子供には投票権がなかった)、開拓者達の国王に対する忠誠に基づいていた。基本的に開拓者達が生き残るために誓約の規則と規定に従うことに同意する社会契約となった。

署名は、ケープコッドに近い現在のプロビンスタウン港で行われた。

メイフラワー誓約の本文

メイフラワー誓約の原稿は失われたが、エドワード・ウィンスローの書いた『モートの関係』とウィリアム・ブラッドフォードの日誌『プリマス・プランテーションについて』にある写しは一致しており、正確なものと認められた。ブラッドフォードの手書き原稿はマサチューセッツ州図書館の特別貯蔵所に保管されている[4]。ブラッドフォードの写しは次のようになっている。内容には、契約神学の影響がある。

神の名において、アーメン。下に署名した我々は、神の恩寵による(英語版)、グレートブリテン・フランスおよびアイルランドの王、信仰の擁護者たるジェームズ王の忠実な臣民である。 神の栄光とキリスト教信仰の振興および国王と国の名誉のために、バージニアの北部に最初の植民地を建設する為に航海を企て、開拓地のより良き秩序と維持、および前述の目的の促進のために、神と互いの者の前において厳粛にかつ互いに契約を交わし、我々みずからを政治的な市民団体に結合することにした。これを制定することにより、時々に植民地の全体的善に最も良く合致し都合の良いと考えられるように、公正で平等な法、条例、法、憲法や役職をつくり、それらに対して我々は当然の服従と従順を約束する。君主にして国王ジェームズのイングランド、フランス、アイルランドの11年目、スコットランドの54年目の統治年11月11日、ケープコッドで我々の名前をここに書することを確かめる。西暦1620年[5][3]

署名者

詳細は「メイフラワー誓約の署名者一覧(英語版)」を参照

署名した41人の乗船客の名前はブラッドフォードの甥ナサニエル・モートン(英語版)が1669年に著した『ニューイングランドの記念』に記されている[6]。モートンの著書は1669年から1855年まで合計で6版が出版されており、歴史学者トマス・プリンス(英語版)は1736年の著書『年代記形態によるニューイングランド年譜』で1669年の初版と同じリストを載せ、番号を振った[7]

メイフラワー誓約の文書は失われており、モートンの記載は署名者一覧の唯一の記録となる。プリンスはブラッドフォード知事のフォリオ原稿の最後にあるリストに見つけた10人の名前に「ミスター」を補った。ブラッドフォードの名前に「ミスター」が無いのは、ブラッドフォードの謙譲によるものと考えた。またスタンディッシュには「キャプテン」を付加した。5人の名前にはスペルを修正した。

  1. ジョン・カーヴァー(英語版)
  2. ウィリアム・ブラッドフォード(英語版)
  3. エドワード・ウィンスロー(英語版)
  4. ウィリアム・ブルースター(英語版)
  5. アイザック・アラートン(英語版)
  6. マイルス・スタンディッシュ
  7. ジョン・オールデン(英語版)

  1. サミュエル・フラー(英語版)
  2. クリストファー・マーティン(英語版)
  3. ウィリアム・マリンズ(英語版)
  4. ウィリアム・ホワイト(英語版)
  5. リチャード・ウォーレン(英語版)
  6. ジョン・ハウランド(英語版)
  7. スティーブン・ホプキンス(英語版)

  1. エドワード・ティリー(英語版)
  2. ジョン・ティリー(英語版)
  3. フランシス・クック(英語版)
  4. トマス・ロジャース(英語版)
  5. トマス・ティンカー(英語版)
  6. ジョン・リッグズデール
  7. エドワード・フラー(英語版)

  1. ジョン・ターナー
  2. フランシス・イートン(英語版)
  3. ジェイムズ・チルトン(英語版)
  4. ジョン・クラクストン(英語版)
  5. ジョン・ビリントン(英語版)
  6. モセス・フレッチャー(英語版)
  7. ジョン・グッドマン

  1. デゴリー・プリースト(英語版)
  2. トマス・ウィリアムズ
  3. ギルバート・ウィンスロー
  4. エドマンド・マージソン
  5. ピーター・ブラウン(英語版)
  6. リチャード・ブリターリッジ
  7. ジョージ・ソウル(英語版)

  1. リチャード・クラーク
  2. リチャード・ガーディナー
  3. ジョン・アラートン
  4. トマス・イングリッシュ
  5. エドワード・ドーティ(英語版)
  6. エドワード・レスター

注釈・出典

  1. ^ Rothbard, Murray Rothbard (1975). “"The Founding of Plymouth Colony"”. Conceived in Liberty. 1. Arlington House Publishers 
  2. ^ 当時ピルグリムはユリウス暦を使用しており、グレゴリオ暦より10日遅れていた。誓約での記述は"ye .11. of November" となっている。
  3. ^ a b Bradford, William (1898). “Book 2, Anno 1620”. In Hildebrandt, Ted (PDF). Bradford's History "Of Plimoth Plantation". Boston: Wright & Potter. http://faculty.gordon.edu/hu/bi/Ted_Hildebrandt/NEReligiousHistory/Bradford-Plimoth/Bradford-PlymouthPlantation.pdf 2006年6月1日閲覧。 
  4. ^ State Library of Massachusetts Online catalog
  5. ^ The Mayflower Compact — Society of Mayflower Descendants in the State of North Carolina
  6. ^ Morton, Nathaniel (1669). "Chapter 2". In Rhys, Ernest (ed.). New England’s Memorial (英語).
  7. ^ Prince, Thomas (1736). A Chronological History of New-England in the form of Annals (英語). pp. 73, 84–86. Internet Archiveより。

関連文献

  • スコット・クリスチャンソン(英語版)、2018、「メイフラワ誓約」、『図説 世界を変えた100の文書』、創元社 ISBN 978-4-422-21530-3 pp. 62

関連項目

外部リンク

ウィキソースにen:Mayflower Compactの原文があります。
  • The Mayflower Compact — Society of Mayflower Descendants in the State of North Carolina
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