ランチア・ラリー037
ランチア・ラリー(Lancia Rally )は、ベータ・モンテカルロをベースとしてアバルトが開発を担当し、ランチアのブランドでフィアットグループが1982年の世界ラリー選手権(WRC)に投入したラリーカーおよびグループB認証の為に150台前後生産したロードカーの一般呼称。
四輪駆動のラリーカーが時代の趨勢となる中で、ミッドシップエンジン・リヤドライブ(MR)方式では最後のタイトル獲得車となった。
開発の経緯
ランチア/アバルトは、当時フルタイム四輪駆動の舗装路での優位性がまだ確立されていなかったことと、開発期間の短縮、ストラトスで培った技術の応用、整備性の良さなどから、ミッドシップエンジンによる後輪駆動(MR)を採用した。
当時、ランチアには四輪駆動車を開発するだけの余力がなく、将来必要になる四輪駆動車の技術取得にも時間がかかることから、「グループB初年(1983年)は後輪駆動で参戦し、グラベルでは手堅くポイントを挙げつつターマックイベントでは必ず勝利し、上位を独占する」という戦略で臨んだとされる。ラリー037の開発ではストラトスの長所を生かしつつ、同車の欠点を可能な限りつぶすこと(ホイールベースの延長、エンジン出力特性の最適化等)に注力された。
ストラダーレ
ランチア・ラリー ストラダーレ Lancia Rally "Stradale" | |
---|---|
概要 | |
デザイン | ピニンファリーナ |
ボディ | |
乗車定員 | 2名 |
ボディタイプ | 2ドア クーペ |
駆動方式 | ミッドシップエンジン リヤドライブ (MR) |
パワートレイン | |
エンジン | 1,995 cc 縦置き 直列4気筒 DOHC スーパーチャージャー |
最高出力 | 205 PS |
前 | ダブルウィッシュボーン |
後 | ダブルウィッシュボーン |
車両寸法 | |
ホイールベース | 2,440 mm |
全長 | 3,915 mm |
全幅 | 1,850 mm |
全高 | 1,245 mm |
車両重量 | 1,170 kg |
系譜 | |
先代 | ランチア・ストラトス |
後継 | ランチア・デルタS4 |
テンプレートを表示 |
概要
型式名はZLA151ARO。正式な車名は単にランチア・ラリー。FISA(英語版)からイタリア自動車クラブに交付されたグループBの承認書には「Lancia Rally (151 AR0)」と記されている。ラリー競技に使用する車をラリーと呼称することは不都合な場合が多々あり、一般にはプロジェクトを指揮し、エンジン開発を担当したアバルトの開発コード「SE037」から、037ラリーもしくはラリー037と呼ばれる[1]。元々は「ランチア・アバルト・ラリー」になる予定だったが、「ラリーのランチア」復活をアピールしたかったためか「アバルト」の呼称は外されてしまった。
ベースとなったベータ・モンテカルロ(型式ZLA137ASO)が、元々フィアットの計画による低価格帯ミッドシップスポーツクーペの一つ(X1/20)であったため、この車種の型式もランチアの800番台ではなくフィアットの100番台となっている(ベータは828、ストラトスHFは829、ガンマは830、デルタは831)。
シャーシの設計はジャンパオロ・ダラーラが担当し、生産もダラーラで行われた。キャビン部分のモノコックをベータ・モンテカルロから流用し、その前後にクローム・モリブデンの鋼管(チューブラー)を多用したトラス構造のスペースフレームを組み合わせている。
エンジンはフェラーリのF1エンジン設計主任だったアウレリオ・ランプレディが設計し、1960年代のデビュー以来フィアットの代表的なDOHCエンジンで、フィアット・124・アバルトラリーとフィアット・131・アバルトラリーを経て熟成が進められてきた通称ランプレディ・ユニットをベースにアバルトが開発した。ベータ・モンテカルロは同ユニットを横置きに搭載していたが、ランチア・ラリーでは運動性向上のために縦置きにレイアウトされ、出力向上のために131で経験のあるアバルトが開発したルーツ式スーパーチャージャー(ヴォルメトリコ)が追加されている。
過給エンジンはすでにグループ5(英語版)レーシングカー、ストラトス・ターボやベータ・モンテカルロ・ターボで経験があったものの、高過給ターボエンジンの急激に立ち上がるトルク特性はラリーに向いていないとの判断から、ターボではなくスーパーチャージャーが選択された。なお、後継のラリーマシンとなるランチア・デルタS4では、スーパーチャージャーとターボを組み合わせたツインチャージャーを採用している)。
ボディデザインはベータ・モンテカルロ同様ピニンファリーナが担当し、ラリー目的に開発された車としては異例の流麗なデザインを持っている。
ストラダーレはコンペティツィオーネに改造された分を含め、全部で200台が製造されたものとされる。日本では当時のインポーターであるガレーヂ伊太利屋によってストラダーレのごく少数が輸入された。当時の車両本体価格は980万円。
コンペティツィオーネ
ランチア・ラリー コンペティツィオーネ Lancia Rally "Competizione" | |
---|---|
概要 | |
デザイン | ピニンファリーナ |
ボディ | |
乗車定員 | 2名 |
ボディタイプ | 2ドア クーペ |
駆動方式 | ミッドシップエンジン リヤドライブ (MR) |
パワートレイン | |
エンジン | 1,995 cc (第1世代)、 2,111 cc(第2世代) 縦置き 直列4気筒 DOHC スーパーチャージャー |
最高出力 | 325 PS |
前 | ダブルウィッシュボーン |
後 | ダブルウィッシュボーン |
車両寸法 | |
ホイールベース | 2,440 mm |
全長 | 3,890 mm |
全幅 | 1,850 mm |
全高 | 1,240 mm |
車両重量 | 960 kg |
系譜 | |
先代 | ランチア・ストラトス |
後継 | ランチア・デルタS4 |
テンプレートを表示 |
概要
グループBでのレースに出場するために、ロードカーのストラダーレをレース専用車に改造したものが、コンペティツィオーネと呼ばれる(FISA(英語版)はエヴォリューションモデルと表現していた)。
世界ラリー選手権でのデビューは1982年の第5戦ツール・ド・コルス。すでにフルタイム四輪駆動とターボエンジンを装備したアウディ・クワトロが台頭してきていた。
ランチアは2輪駆動でしかも予算が限られる中、名将チェーザレ・フィオリオが冬のラリー・モンテカルロのコースに塩をまくほか、サンレモではスタート遅延を行うなど、レギュレーションの裏をかいた様々な手を使い、またワルター・ロールの活躍も手伝い、モンテカルロとコルシカ、ギリシア、サンレモなどで勝利し、残り2戦を残して1983年にマニュファクチャラーズタイトルを獲得した。
しかし開発が進み速くなってゆくライバルに対して次期マシン(デルタS4)の開発は遅れ、結局1985年まで現役参戦したが、グループB競技車が限界を超える領域に入ることもしばしばで、ランチアも1985年にはツール・ド・コルスでアッティリオ・ベッテガの死亡事故を起こしてしまう。
デルタS4開発遅延に伴う延命のため、途中シャシーとボディの一部にカーボン・チタンなどを多用して軽量化を図り、20台造られた第2世代エヴォリューションモデルは排気量を2,111ccまで拡大し、大容量のスーパーチャージャーを使用して出力の向上を狙った。
1985年のサンレモ・ラリーを最後にその座をランチア・デルタS4に譲り、その後はプライベーターの手によって主にヨーロッパのラリーシーンを中心に活躍している。日本では1994年の全日本GT選手権(JGTC)第3戦富士スピードウェイに、レギュレーションに適合させたマシンがスポット参戦し、完走を果たした[2]。
影響
ラリーはその登場後、いくつかのミッドシップレイアウト・スポーツカーの開発に影響を与えた。1987年に発表・販売されたフェラーリF40にはその構造やセッティングに痕跡が見られ、1990年に発売されたホンダ・NSXの開発責任者であった上原繁は後のテレビ番組のインタビューの中で「NSXの開発で最も参考にし、また影響された車は(販売戦略上の目標であったフェラーリ・328ではなく)ランチア・ラリーであった」ことに言及している。
脚注
参考文献
- 『RALLY CARS Vol.7 LANCIA RALLY 037』三栄書房〈サンエイムック〉、2015年
関連項目
- ランチア・ベータ・モンテカルロ
- ランチア・デルタS4 - 世界ラリー選手権(WRC)における後継車。
- キメラ・EVO37
ポータル 自動車 / プロジェクト 乗用車 / プロジェクト 自動車 | |||||
---|---|---|---|---|---|
|