レオポルト1世 (神聖ローマ皇帝)

レオポルト1世
Leopold I
神聖ローマ皇帝
レオポルト1世
(ベンジャミン・フォン・ブロック画1672年)
ウィーン美術史美術館)
在位 1658年 - 1705年
別号 ハンガリー国王
ボヘミア国王
オーストリア大公
クライン公
チロル伯
テシェン公

出生 1640年6月9日
神聖ローマ帝国の旗 神聖ローマ帝国
オーストリアの旗 オーストリア大公国ウィーン
死去 1705年5月5日
神聖ローマ帝国の旗 神聖ローマ帝国
オーストリアの旗 オーストリア大公国 ウィーン
埋葬 神聖ローマ帝国の旗 神聖ローマ帝国
オーストリアの旗 オーストリア大公国 ウィーン カプツィーナー納骨堂
配偶者 マルガリータ・テレサ・デ・エスパーニャ
  クラウディア・フェリーツィタス・フォン・エスターライヒ=ティロル
  エレオノーレ・マグダレーネ・フォン・プファルツ=ノイブルク
子女 マリア・アントニア
ヨーゼフ1世
マリア・エリーザベト
マリア・アンナ・ヨーゼファ
カール6世
マリア・マグダレーナ
家名 ハプスブルク家
王朝 ハプスブルク朝
父親 神聖ローマ皇帝フェルディナント3世
母親 マリア・アンナ・フォン・シュパーニエン
宗教 キリスト教カトリック教会
サイン
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レオポルト1世ドイツ語:Leopold I, 1640年6月9日 - 1705年5月5日)は、神聖ローマ皇帝(在位:1658年 - 1705年)。さらにオーストリア大公ボヘミア国王ハンガリー国王(在位:1655年 - 1705年)。三十年戦争で衰退した帝国を受け継ぎ、全盛期のフランスオスマン帝国に圧迫されて苦戦を強いられたが、やがてオスマン帝国からハンガリー・トランシルヴァニアを奪取して東に領土を拡大、ハプスブルク家の大国復興の足がかりを築いた。

先帝フェルディナント3世と皇后でスペイン国王 フェリペ3世の娘マリア・アンナの成人した2番目の息子、マリア・テレジアは孫、マリー・アントワネットは曾孫、フランツ2世は玄孫、フランツ・ヨーゼフ1世は昆孫、オーストリア皇帝カール1世は雲孫である。また、ジギスムント・フランツ大公からチロルを相続した。優れた作曲家でもあり、バロック大帝とも呼ばれた[1]

生涯

帝位継承前後の状況

1640年、ウィーンで誕生した。聖職者になるべく教育を施されたが、1654年、父帝の後継者に決められていた兄のローマ王フェルディナント4世が父に先立って死去したため、新たに後継者となる。1655年にハンガリー国王に即位し、父が死去した1657年にボヘミア国王に即位した。しかし、帝位はそのまま継承されず1年あまり空位となり、フランス国王 ルイ14世の宰相マザランバイエルン選帝侯フェルディナント・マリアを皇帝に擁立しようとしたが、他の選帝侯たちの反対にあって失敗、翌1658年にレオポルトが帝位を継承している。

しかしレオポルト1世もすんなりと帝位についたわけではなく、選帝侯たちに莫大な金を支払い、スペインとの協力を断念するなど制約が設けられた上、ライン川方面に集まる諸侯がフランスの援助でライン同盟を結成、ケルン選帝侯マインツ選帝侯トリーア選帝侯ら聖俗諸侯やヘッセン=カッセル方伯ブランデンブルク選帝侯プファルツ選帝侯など有力諸侯も加わりライン川のハプスブルク領が分断され、フランスのライン川への進出が容易になり苦しい状況に追い込まれた。ただし、ライン同盟自体は1667年に内部分裂から消滅している[2]

おりしも東のトランシルヴァニア公国では、ラーコーツィ・ジェルジ2世ポーランド・リトアニア共和国の内戦(大洪水時代)に攻め入りながら失敗、責任を問われオスマン帝国に廃位される事態が発生した。トランシルヴァニアはオスマン帝国を宗主としていたが、ハプスブルク家とオスマン帝国はトランシルヴァニアを含むハンガリーを巡って争っていたため、トランシルヴァニアの内紛が両者の衝突に繋がる可能性があった。かくして、レオポルト1世は治世を通してフランスとオスマン帝国の対策に追われることになる。

ウィーン包囲まで

1660年、ラーコーツィ・ジェルジ2世がオスマン帝国軍に敗死、バルチャイ・アーコシュがオスマン帝国に擁立され、ラーコーツィ・ジェルジ2世の側近ケメーニ・ヤーノシュもトランシルヴァニア公を名乗り、互いに対立していった。1661年、レオポルト1世は将軍ライモンド・モンテクッコリをハンガリーに送ったが、ケメーニ・ヤーノシュは1662年に戦死したため、オスマン帝国側のアパフィ・ミハーイ1世が即位した。オスマン帝国のハンガリー侵攻は続けられ、1663年レーゲンスブルク帝国議会でレオポルト1世は諸侯を招集して援助を受け取り、ハンガリーのモンテクッコリに送った。

1664年にセントゴットハールドの戦いでモンテクッコリはオスマン帝国軍に勝利したが、オーストリアはフランスとの内紛も抱えていたため反撃に出ることなく和睦、ヴァシュヴァールの和約を結んでオスマン帝国に大幅な有利な条件で20年にわたり休戦した。これがハンガリーの親ハプスブルク派貴族を憤慨させ、ハプスブルク家とオスマン帝国からの独立を考えるようになった。

1668年にルイ14世とスペイン分割条約を結び、甥で母方の従兄弟にも当たるカルロス2世(母方の伯父フェリペ4世と姉マリア・アンナの息子)亡き後のスペイン領の配分を取り決めた。しかし、ルイ14世がオランダ侵略戦争を起こすと他の帝国諸侯と共に反フランスに立って参戦している。また、1670年ロレーヌ公国をフランスに奪われたシャルル4世を保護して軍人に取り立て、死後はその甥のシャルル5世も軍人として登用、後に異母妹エレオノーレと結婚させている(この2人の孫が、レオポルトの孫娘マリア・テレジアの夫となる皇帝フランツ1世である)。

トランシルヴァニアでは1670年に反ハプスブルク派によるヴェッシェレーニ陰謀が露見、厳罰に処した。レオポルト1世はこれを機にハンガリーに絶対主義浸透を図り、副王(ナードル)職の廃止とハンガリー議会の停止、宗教統一を図ってプロテスタント弾圧政策を実施したが、あまりに残酷な処置を取ったためハンガリー貴族は一斉に反抗運動を起こし、フランスとオスマン帝国の援助を受けてテケリ・イムレ1678年に反乱を起こしてハンガリーをほとんど制圧した。1679年にウィーンにペストが流行した影響もあって、レオポルト1世は1681年にハンガリー議会を開き、絶対主義政策を撤回、副王の復活とプロテスタント弾圧の中止と寛容政策をとることを約束した。反乱側もレオポルト1世と和睦したが、テケリは妥協せず反抗を続けた。

1682年から再びオスマン帝国の侵攻を受け、翌1683年にはテケリらと手を結んだオスマン帝国によってウィーンを包囲されるに至った(第二次ウィーン包囲)。レオポルト1世はウィーンから脱出してパッサウへ移動、ドイツ諸侯へ救援を呼びかけ、ポーランド国王ヤン3世・ロレーヌ公シャルル5世・バイエルン選帝侯マクシミリアン2世・ザクセン選帝侯ヨハン・ゲオルク3世・バーデン辺境伯ルートヴィヒ・ヴィルヘルムなどの軍事的支援の結果、撃退させることに成功した。この戦いはオスマン帝国の衰退を意味すると同時に、一国だけでは侵攻を撃退させることが出来ないほどのオーストリアの弱体ぶりを露呈させてしまう事態となったが、東へ反撃に打って出る好機でもあった[3][4][5][6]

レオポルト1世とエレオノーレの結婚(19世紀画)

大国への再興

ウィーン解放から攻勢に出たレオポルト1世は、1684年にポーランド・ヴェネツィアと神聖同盟を締結、ロレーヌ公シャルル5世を指揮官としてドナウ川に沿ってハンガリー遠征を敢行した(大トルコ戦争)。遠征軍は順調に成果を上げ、1686年ブダを落としてハンガリーの大部分を制圧、1687年のモハーチの戦いでオスマン帝国に勝利してからトランシルヴァニアにも介入した。アパフィ・ミハーイ1世はハプスブルク家と協定を結び、あくまで反抗したテケリは味方が遠征軍に寝返ったため没落、オスマン帝国の援助なしに活動出来なくなった。

レオポルト1世は1687年にブラチスラヴァでハンガリー議会を召集、前回とは打って変わって皇帝側が大きく権力を伸ばし、貴族の権利承認と引き換えに男子世襲の承認、貴族の抵抗権放棄、長男ヨーゼフ1世のハンガリー国王即位を認められた。翌1688年にハンガリーに改革委員会を設置、行政・司法の整備と上級貴族への課税を行った。トランシルヴァニアにも変更を加え、1691年に信仰の自由、国制の保障と引き換えにトランシルヴァニアを事実上領有、翌1692年にトランシルヴァニア公アパフィ・ミハーイ2世から統治権を譲らせ、1698年東方典礼カトリック教会を設立して宗教にも介入、ドナウ川流域を中心とする帝国の誕生に繋げた。

東欧で遠征を進めている最中、ルイ14世がドイツに出兵して大同盟戦争が勃発、イングランド王兼オランダ総督ウィリアム3世および帝国諸侯と共にアウクスブルク同盟を結んでルイ14世と戦った。この際、遠征軍の大部分をドイツ・イタリアへ回したためハンガリー戦線は停滞した。1696年にイタリアでサヴォイア公 ヴィットーリオ・アメデーオ2世がフランスと講和して離脱、共に中立に同意したため同盟は終戦に向かい、1697年レイスウェイク条約締結に繋がった。

イタリアから解放されたためイタリア方面軍をハンガリー戦線へ送り、プリンツ・オイゲンゼンタの戦いで大勝利を飾ったため1699年カルロヴィッツ条約を結び、オスマン帝国からハンガリー王国の大部分(オスマン帝国領ハンガリーおよびトランシルヴァニア公国)を奪回することに成功した。これによってハプスブルク家は、18世紀を目前にして、大国復興の足がかりを築くことが出来たのである。また、ポーランド国王ヤン3世が死去した際、ザクセン選帝侯フリードリヒ・アウグスト1世を国王選挙で支援、次の国王に即位させてポーランドにも影響を及ぼした[7][8][9][10]

晩年

大同盟戦争終結後、ヨーロッパはスペイン国王カルロス2世死後のスペイン領土の行方に関して交渉を重ねていた。レオポルト1世とルイ14世は共にスペイン・ハプスブルク家の血を引いていてカルロス2世の姉と結婚していたため、カルロス2世とは従兄弟であり義兄でもあった。しかし、どちらか一方がスペインを継承するとアメリカまで広がる巨大帝国が誕生する事態になるため、後継者は両者の息子か孫に絞られた。ルイ14世は孫のアンジュー公フィリップ(後のフェリペ5世)を候補に掲げ、レオポルト1世は次男のカール(後の皇帝カール6世)を擁立した。レオポルト1世の娘マリア・アントニアとバイエルン選帝侯マクシミリアン2世の長男ヨーゼフ・フェルディナントが当初の候補であったが、夭折したため話は立ち消えになった。

カルロス2世はスペイン領の分割を拒否して、スペイン領全てをフィリップに譲る遺書を書いて1700年に死去し、スペイン・ハプスブルク家は断絶した。諸国はフランスに反感を抱き、レオポルト1世はカールを新たなスペイン国王として擁立しようと、イングランド・オランダと手を結んでルイ14世と再び敵対した(スペイン継承戦争)。しかしオイゲンを派遣したイタリア戦線は苦戦した上、1702年にバイエルン選帝侯マクシミリアン2世が離反してフランス軍と合流、ハンガリーでもフランスの援助でラーコーツィ・フェレンツ2世独立戦争を起こし、オーストリアは東西に挟み撃ちを受ける形となった。

危機的状況に追い込まれたレオポルト1世は、イタリアからウィーンに出向いたオイゲンを軍事委員会総裁に任命して軍の全権を掌握させ、合わせてイングランド軍の総司令官マールバラ公ジョン・チャーチルに救援を要請した。承諾したマールバラ公は、1704年にオランダからドイツまで400kmの長距離行軍を成し遂げ、オイゲンと合流、ブレンハイムの戦いでフランス・バイエルン連合軍に大勝してバイエルンを占領し、ドナウ川戦線を消滅させた。西の脅威は去り、東の反乱もフランスとの連携を取れなくなったため、ひとまず危機を脱した[11][12]

1705年、戦争の最中に64歳で死去した。遺体はウィーンのカプツィーナー納骨堂に埋葬された。帝位とボヘミア王位はヨーゼフ1世が継承、カールはスペインでフェリペ5世と戦ったが苦戦続きで、1711年にヨーゼフ1世が早世した後に皇帝となりスペイン王位を断念した。スペイン継承戦争を通してハプスブルク家はスペインを失ったが、東欧で勢力を伸ばし大国に成長していった。

人物

レオポルト1世は、当初は聖職者としての人生を歩むことが予定されたため、高度な教育を施され、音楽に対する造詣の深さはこの時の教育によるものである。学問と芸術をこよなく愛する文人皇帝であり、平和愛好家でありながら、皮肉にも治世の大半は戦争に終始翻弄されることとなった。皇帝でありながら自らの生活は質素で、日夜を通じて精力的に政務に励んだ。敬虔なカトリック教徒だったが、それがハンガリーで実施した不寛容政策に繋がった。また君主としての心構えがないまま即位したこともあり、しばしば優柔不断な態度を取ることもあった。

レオポルト1世は積極的な外征によってオスマン帝国から多くの領土を奪還し、カール5世以降衰退の一途をたどっていたハプスブルク帝国を再び大国の地位へと引き戻した。しかし、レオポルト1世本人が親征に赴くことはほとんどなく、実際にはエルンスト・リュディガー・フォン・シュターレンベルクライモンド・モンテクッコリ・ロレーヌ公シャルル5世・プリンツ・オイゲンといった名将たちの活躍での功によるところが大きい。特にフランス出身であったオイゲンの軍事的才能を見抜き重用したことは、ハプスブルク帝国再興への大きな原動力となった。しかもレオポルト1世はその功績に報い、彼らを厚遇した。レオポルト1世に仕えた者の多くが非常な忠誠心を抱いたという。

優れた文化人であり、オーストリアはレオポルト1世の治世の下で文化的に大いなる発展を遂げた。レオポルト1世は作曲も行い、教会音楽にとどまらずバレエ音楽にまで作品を残している。アントニオ・ベルターリジョヴァンニ・バッティスタ・ボノンチーニヨハン・カスパール・ケルルヨハン・ヨーゼフ・フックスヨハン・ハインリヒ・シュメルツァーパトロンとしても活動、ウィーンは音楽の都として発展していった。

1666年に最初の妻マルガレーテとの結婚式では壮大なパレード、花火大会を敢行、オペラ上演や豪華な展示物も催され、翌1667年に開かれたオペラでマルガレーテも共に主演を飾った。この一大イベントはバロック文化の粋を飾った行事として語り草になった。

諸侯への爵位・王位授与を行い、帝国の領邦君主であるカレンベルク侯エルンスト・アウグストにブラウンシュヴァイク=リューネブルク選帝侯位を授けたり、プロイセン公を兼ねていたブランデンブルク選帝侯フリードリヒ3世に「プロイセンの王」の称号を認めるなど、後のハノーファー王国プロイセン王国の成立にも関わっている(エルンスト・アウグストの息子ゲオルク・ルートヴィヒはイギリス王位も継承した)。特にプロイセンは諸侯の中でも著しく台頭、後にオーストリアと並ぶドイツの二大勢力に成長した。

大トルコ戦争の勝利から領土拡大を果たしたが、なおも貴族と教会の権力が強く、絶対君主制から程遠い状況にあった。ハンガリー・トランシルヴァニアにしても妥協から変革は成し遂げられず、君主権がほとんど及ばない国家になっていて、ヨーゼフ1世・カール6世も手をつけず現状維持に努めたため、国制改革でハプスブルク領が一体化に近づくには孫娘マリア・テレジアの時代まで待たなければならなかった。

音楽作品

レオポルト1世は優れた作曲家でもあり、生涯に353曲の楽曲を作曲をした、作品の内217曲は教会音楽で、常に宮廷で演奏されていた。又、宮廷楽長アントニオ・ドラーギの作曲したオペラ曲の内、何曲かはレオポルト1世の手によるものと推定されている。

器楽曲

  • 『バレット集』(Balletti

教会音楽

  • 『喜ばしき天の女王』(Regina coeli
    • 作曲年:1655年

オラトリオ

  • 『肉欲に対するキリストの受難の勝利』(Sig des Leydens Chiristi die Sinnlichkeit
    • 詩:J.A.リュドルフ、初演:1682年、ウィーン

系譜

レオポルト1世

神聖ローマ皇帝
フェルディナント3世

祖父

神聖ローマ皇帝
フェルディナント2世

曾祖父

オーストリア大公
カール2世

曾祖母バイエルン公女
マリア・アンナ[1]
祖母バイエルン公女
マリア・アンナ
曾祖父

バイエルン公
ヴィルヘルム5世[2]

曾祖母ロレーヌ公女
レナータ

マリア・アナ[4]
祖父

スペイン国王
フェリペ3世

曾祖父

スペイン国王
フェリペ2世

曾祖母
アナ[3]
祖母
マルガリータ
曾祖父

オーストリア大公
カール2世

曾祖母
マリア・アンナ[1]

系譜の中に、複数の叔姪婚が含まれている(赤字が姪)。

  1. カール2世妃マリア・アンナは、バイエルン公アルブレヒト5世と、カール2世の姉アンナの間の娘であり、叔父と姪の結婚である。
  2. アルブレヒト5世 (バイエルン公)の子で、[1]と兄妹。
  3. 皇帝マクシミリアン2世と、フェリペ2世の妹マリアの子であり、叔父と姪の結婚である。
  4. 兄にフェリペ4世、姉にフランス王ルイ13世妃アンヌ・ドートリッシュがいる。

子女

3度結婚しているが、多くの子供が夭折している。

  • 皇后:マルガレーテ・テレジア(1651年 - 1673年) - スペイン国王フェリペ4世の王女で、母方の従姉妹で姪でもある。1666年に結婚、仲睦まじく4人の子を儲けたが1673年に死去。子供もマリア・アントニアを除いて夭折した。
    • フェルディナント・ヴェンツェル(1667年 - 1668年)
    • マリア・アントニア(1669年 - 1692年) - バイエルン選帝侯マクシミリアン2世エマヌエル妃。
    • ヨーハン・レオポルト(1670年)
    • マリア・アンナ・アントニア(1672年)
  • 皇后:クラウディア・フェリーツィタス(1653年 - 1676年) - オーストリア大公フェルディナント・カールの娘で父方の又従妹に当たる。1673年に結婚したが1676年に死去。2人の子も夭折した。
    • アンナ・マリア・ゾフィー(1674年)
    • マリア・ヨーゼファ・クレメンティーネ(1675年 - 1676年)
  • 皇后:エレオノーレ・マグダレーネ(1655年 - 1720年) - プファルツ選帝侯フィリップ・ヴィルヘルムの娘。1676年に結婚、10人の子を儲けた。
    • ヨーゼフ(1678年 - 1711年) - 神聖ローマ皇帝 ヨーゼフ1世
    • クリスティーネ(1679年)
    • マリア・エリーザベト(1680年 - 1741年) - 1725年より南ネーデルラント総督
    • レオポルト・ヨーゼフ(1682年 - 1684年)
    • マリア・アンナ・ヨーゼファ(1683年 - 1754年) - ポルトガル国王 ジョアン5世妃
    • マリア・テレジア(1684年 - 1696年)
    • カール(1685年 - 1740年) - 神聖ローマ皇帝 カール6世。マリア・テレジアの父。
    • マリア・ヨーゼファ(1687年 - 1703年)
    • マリア・マグダレーナ・ヨーゼファ(1689年 - 1743年)
    • マリア・マルガレーテ(1690年 - 1691年)

脚注

[脚注の使い方]
  1. ^ 菊池 2009, pp. 69, 73.
  2. ^ 成瀬ら編 1996, pp. 6-9.
  3. ^ 成瀬ら編 1996, pp. 10-17.
  4. ^ 長谷川ら 1997, pp. 286-293.
  5. ^ 南塚編 1999, pp. 126-130.
  6. ^ マッケイ 2010, pp. 1-6.
  7. ^ 成瀬ら編 1996, pp. 17-19.
  8. ^ 長谷川ら 1997, pp. 293-295.
  9. ^ 南塚編 1999, pp. 130-133.
  10. ^ マッケイ 2010, pp. 17-53.
  11. ^ 友清 2007, pp. 11-26, 85-131.
  12. ^ マッケイ 2010、pp. 68-110.

参考文献

  • (成瀬ら編 1996) 成瀬, 治山田, 欣吾木村, 靖二 編『ドイツ史 2 1648年-1890年』山川出版社〈世界歴史大系〉、1996年7月。ISBN 978-4-634-46130-7。 
  • (長谷川ら 1997) 長谷川輝夫大久保桂子土肥恒之『ヨーロッパ近世の開花』中央公論社〈世界の歴史 17〉、1997年3月。ISBN 978-4-12-403417-2。 
  • (南塚編 1999) 南塚信吾 編『ドナウ・ヨーロッパ史』山川出版社〈新版 世界各国史 19〉、1999年3月。ISBN 978-4-634-41490-7。 
  • (友清 2007) 友清理士『スペイン継承戦争 マールバラ公戦記とイギリス・ハノーヴァー朝誕生史』彩流社、2007年2月。ISBN 978-4-7791-1239-3。 
  • (菊池 2009) 菊池良生『図説 神聖ローマ帝国』河出書房新社〈ふくろうの本〉、2009年6月。ISBN 978-4-309-76127-5。 
  • (井上 2009) 井上和男『クラシック音楽作品名辞典<第3版>』三省堂、2009年6月。ISBN 978-4-385-13549-6。 
  • (マッケイ 2010) マッケイ, デレック『プリンツ・オイゲン・フォン・サヴォア 興隆期ハプスブルク帝国を支えた男』瀬原義生訳、文理閣、2010年5月。ISBN 978-4-89259-619-3。 
  • ウィートクロフツ, アンドリュー『ハプスブルク家の皇帝たち 帝国の体現者』瀬原義生訳、文理閣、2009年7月。ISBN 978-4-89259-591-2。 
  • 新人物往来社 編『ハプスブルク帝国 ヨーロッパに君臨した七〇〇年王朝』KADOKAWA(新人物往来社)〈ビジュアル選書〉、2010年8月。ISBN 978-4-404-03899-9。 

関連項目

外部リンク

ウィキメディア・コモンズには、レオポルト1世に関連するカテゴリがあります。
爵位・家督
先代
フェルディナント3世
神聖ローマ皇帝
1658年 - 1705年
次代
ヨーゼフ1世
爵位・家督
先代
フェルディナーンド4世
ハンガリー国王
1655年 - 1705年
次代
ヨージェフ1世
爵位・家督
先代
フェルジナンド4世
ボヘミア国王
1657年 - 1705年
次代
ヨゼフ1世
爵位・家督
先代
フェルディナント4世
(オーストリア)
ジギスムント・フランツ
(前方)
オーストリア大公
1657年 - 1705年
次代
ヨーゼフ1世
爵位・家督
先代
フェルディナント3世
クライン公
1657年 - 1705年
次代
ヨーゼフ1世
爵位・家督
先代
ジギスムント・フランツ
チロル伯
1665年 - 1705年
次代
ヨーゼフ1世
爵位・家督
先代
フェルディナント3世
テシェン公
1657年 - 1705年
次代
ヨーゼフ1世
カロリング朝
  • カール1世800-814
  • ルートヴィヒ1世813-840
  • ロタール1世817-855
  • ルートヴィヒ2世850-875
  • カール2世875-877
  • カール3世881-887
  • グイード1891-894
  • ランベルト1891-898
  • アルヌルフ896-899
  • ルートヴィヒ3世2901-915
  • ベレンガル3915-924
ザクセン朝
  • オットー1世962-973
  • オットー2世967-983
  • オットー3世996-1002
  • ハインリヒ2世1014-1024
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  • コンラート2世1027-1039
  • ハインリヒ3世1046-1056
  • ハインリヒ4世1084-1105
  • ハインリヒ5世1111-1125
  • ロタール3世41133-1137
ホーエンシュタウフェン朝
  • フリードリヒ1世1155-1190
  • ハインリヒ6世1191-1197
  • オットー4世51209-1215
  • フリードリヒ2世1220-1250
ルクセンブルク家
  • ハインリヒ7世1312-1313
  • ルートヴィヒ4世61328-1347
  • カール4世1355-1378
  • ジギスムント1433-1437
ハプスブルク家
  • フリードリヒ3世1452-1493
  • マクシミリアン1世1508-1519
  • カール5世1530-1556
  • フェルディナント1世1558-1564
  • マクシミリアン2世1564-1576
  • ルドルフ2世1576-1612
  • マティアス1612-1619
  • フェルディナント2世1619-1637
  • フェルディナント3世1637-1657
  • レオポルト1世1658-1705
  • ヨーゼフ1世1705-1711
  • カール6世1711-1740
  • カール7世61742-1745
ハプスブルク=ロートリンゲン家
  • フランツ1世71745-1765
  • ヨーゼフ2世1765-1790
  • レオポルト2世1790-1792
  • フランツ2世1792-1806
アールパード朝(大公)
  • アールモシュ(英語版)855頃-895頃
  • アールパード895頃-907頃
  • ジョルト(英語版)907頃-947頃
  • ファリチ(英語版)947頃-955頃
  • タクショニュ(英語版)955頃-972頃
  • ゲーザ(英語版)972頃-997
  • イシュトヴァーン997-1000
アールパード朝(王)
  • イシュトヴァーン1世1000-1038
  • ペーテル1038-1041
  • シャームエル1041-1044
  • ペーテル(復位)1044-1046
  • アンドラーシュ1世1046-1060
  • ベーラ1世1060-1063
  • シャラモン1063-1074
  • ゲーザ1世1074-1077
  • ラースロー1世1077-1095
  • カールマーン1095-1116
  • イシュトヴァーン2世1116-1131
  • ベーラ2世1131-1141
  • ゲーザ2世1141-1162
  • イシュトヴァーン3世1162-1172
  • ラースロー2世(対立王)1162-1163
  • イシュトヴァーン4世(対立王)1163-1165
  • ベーラ3世1172-1196
  • イムレ1196-1204
  • ラースロー3世1204-1205
  • アンドラーシュ2世1205-1235
  • ベーラ4世1235-1270
  • イシュトヴァーン5世1270-1272
  • ラースロー4世1272-1290
  • アンドラーシュ3世1290-1301
プシェミスル朝
  • ヴェンツェル1301-1305
ヴィッテルスバッハ朝
  • オットー1305-1307
アンジュー朝
  • カーロイ1世1308-1342
  • ラヨシュ1世1342-1382
  • マーリア1382-1385
  • カーロイ2世1385-1386
  • マーリア(復位)1386-1395
ルクセンブルク朝
  • ジグモンド1387-1437
ハプスブルク朝
  • アルベルト1437-1439
ヤゲロー朝
  • ウラースロー1世1440-1444
ハプスブルク朝
フニャディ朝
  • マーチャーシュ1世1458-1490
ヤゲロー朝
  • ウラースロー2世1490-1516
  • ラヨシュ2世1516-1526
ハプスブルク朝
ハプスブルク=ロタリンギア朝
  • ヨージェフ2世1780-1790
  • リポート2世1790-1792
  • フェレンツ1世1792-1835
  • フェルディナーンド5世1835-1848
  • フェレンツ・ヨージェフ1世1848-1916
  • カーロイ4世1916-1918
  • 1918年、ハンガリー人民共和国成立
ボヘミアの旗 ボヘミア君主 ボヘミア王国の紋章
プシェミスル朝(ボヘミア公)
  • ボジヴォイ1世850/71-894/5
  • スピチフニェフ1世894/5-905/15
  • ヴラチスラフ1世905/15-921
  • ヴァーツラフ1世921-929
  • ボレスラフ1世929-967
  • ボレスラフ2世967-999
  • ボレスラフ3世996-1002
ピャスト朝(ボヘミア公)
  • ヴラジヴォイ1002-1003
  • ボレスラフ4世1003-1004
プシェミスル朝(ボヘミア公)
  • ヤロミール1004-1012
  • オルドジフ1012-1033
  • ヤロミール(復位)1033-1034
  • ブジェチスラフ1世1034-1055
  • スピチフニェフ2世1055-1061
  • ヴラチスラフ2世1061-1092(王:1085-1092)
  • コンラート1世1092
  • ブジェチスラフ2世1092-1100
  • ボジヴォイ2世1100-1107
  • スヴァトプルク1107-1109
  • ヴラジスラフ1世1109-1117
  • ボジヴォイ2世(復位)1117-1120
  • ヴラジスラフ1世(復位)1120-1125
  • ソビェスラフ1世1125-1140
  • ヴラジスラフ2世1140-1173(王:1158-1173)
  • ベドジフ1172-1173
  • ソビェスラフ2世1173-1178/9
  • ベドジフ(復位)1178/9-1189/92
  • コンラート2世1189-1191
  • ヴァーツラフ2世1191-1192
  • オタカル1世1192-1193
  • インジフ・ブジェチスラフ1193-1197
  • ヴラジスラフ3世1197
  • オタカル1世(復位)1197-1198
プシェミスル朝(ボヘミア王)
  • オタカル1世1198-1230
  • ヴァーツラフ1世1230-1253
  • オタカル2世1253-1278
  • ヴァーツラフ2世1278-1305
  • ヴァーツラフ3世1305-1306
メンハルド朝
  • インジフ・コルタンスキー1306
ハプスブルコヴェ朝
  • ルドルフ1世1306-1307
メンハルド朝
  • インジフ・コルタンスキー(復位)1307-1310
ルケンブルコヴェ朝
ハプスブルコヴェ朝
ポジェブラト朝
  • イジー1458-1471
フニャディ朝
  • マティアス1世(対立王)1469-1490
ヤゲロンキ朝
  • ヴラジスラフ・ヤゲロンスキー1471-1516
  • ルドヴィーク1516-1526
ハプスブルコヴェ朝
  • フェルジナント1世1526-1564
  • マクシミリアン1世1564-1576
  • ルドルフ2世1576-1612
  • マティアス2世1612-1619
ヴィッテルスバホヴェ(ファルツ)朝
  • フリードリヒ1世1619-1620
ハプスブルコヴェ朝
  • フェルジナント2世1620-1637
  • フェルジナント3世1637-1646
  • フェルジナント4世1646-1654
  • レオポルト1世1655-1705
  • ヨゼフ1世1705-1711
  • カレル2世1711-1740
  • マリエ・テレジエ1740-1741
ヴィッテルスバホヴェ(バヴォルスコ)朝
  • カレル3世・アルブレフト1741-1743
ハプスブルコヴェ朝
ハプスブルスコ=ロートリンスカ朝
  • ヨゼフ2世1780-1790
  • レオポルト2世1790-1792
  • フランティシェク1世1792-1835
  • フェルジナント5世1835-1848
  • フランティシェク・ヨゼフ1世1848-1916
  • カレル3世1916-1918
歴代ドイツ君主・盟主
カロリング朝
  • (ピピン751-768
  • カール1世皇帝(768)-814
  • ルートヴィヒ1世皇帝814-840
  • ロタール1世皇帝840-843
  • ルートヴィヒ2世843-876
  • カールマン2世876-880
  • ルートヴィヒ3世876-882
  • カール3世皇帝876-887
  • アルヌルフ皇帝887-899
  • ルートヴィヒ4世899-911
  • 断絶
  • コンラート1世1911-918
共同王
  • (カールマン1世768-771
ザクセン朝
  • ハインリヒ1世919-936
  • オットー1世皇帝936-973
  • オットー2世皇帝973-983
  • オットー3世皇帝983-1002
  • ハインリヒ2世皇帝1002-1024
共同王
  • オットー2世皇帝961-973
対立王
  • バイエルン公アルヌルフ919-921
  • バイエルン公ハインリヒ2世984-985
ザーリアー朝
  • コンラート2世皇帝1024-1039
  • ハインリヒ3世皇帝1039-1056
  • ハインリヒ4世皇帝1056-1105
  • ハインリヒ5世皇帝1105-1125
  • 断絶
  • ロタール3世2,皇帝1125-1137
共同王
  • ハインリヒ3世1028-1039
  • ハインリヒ4世1053-1156
  • イタリア王コンラート1087-1098
  • ハインリヒ5世1198-1105
対立王
ホーエンシュタウフェン朝
  • コンラート3世1138-1152
  • フリードリヒ1世皇帝1152-1190
  • ハインリヒ6世皇帝1190-1197
  • フリードリヒ2世1197-1198
  • フィリップ1198-1208
  • 中断
  • オットー4世3,皇帝1208-1215
  • 再開
  • フリードリヒ2世皇帝(復位)1215-1220
  • ハインリヒ(7世)1220-1235
  • コンラート4世1237-1254
共同王
  • ハインリヒ6世1169-1190
  • フリードリヒ2世1194-1197
対立王
  • ヴェルフ家オットー1198-1208
  • シチリア王フリードリヒ1212-1215
  • ハインリヒ・ラスペ1246-1247
  • ホラント伯ヴィルヘルム1248-1254
大空位時代
  • ホラント伯ヴィルヘルム1254-1256
  • コルンヴァル伯リヒャルト1257-1272
対立王
  • カスティーリャ王アルフォンソ10世1257-1275
非世襲期
  • ルドルフ1世41273-1291
  • アドルフ51292-1298
  • アルブレヒト1世41298-1308
  • ハインリヒ7世6,皇帝1308-1313
  • ルートヴィヒ5世7,皇帝1314-1347
  • カール4世6,皇帝1347-1378
  • ヴェンツェル61378-1400
  • ループレヒト71400-1410
  • ジギスムント6,皇帝1410-1437
  • アルブレヒト2世41438-1439
共同王
  • フリードリヒ3世41325-1230
  • ヴェンツェル61376-1478
対立王
ハプスブルク家
  • フリードリヒ4世皇帝1440-1493
  • マクシミリアン1世皇帝1493-1519
  • カール5世皇帝1519-1556
  • フェルディナント1世皇帝1556-1564
  • マクシミリアン2世皇帝1564-1576
  • ルドルフ2世皇帝1576-1612
  • マティアス皇帝1612-1619
  • フェルディナント2世皇帝1619-1637
  • フェルディナント3世皇帝1637-1657
  • レオポルト1世皇帝1658-1705
  • ヨーゼフ1世皇帝1705-1711
  • カール6世皇帝1711-1740 | 断絶 | カール7世7,皇帝1742-1745
共同王
  • マクシミリアン1世1486-1593
  • フェルディナント1世1531-1556
  • マクシミリアン2世1562-1564
  • ルドルフ2世1575-1676
  • フェルディナント3世1636-1637
  • フェルディナント4世1653-1654
  • ヨーゼフ1世1690-1705
ハプスブルク=ロートリンゲン家
  • フランツ1世皇帝1745-1765
  • ヨーゼフ2世皇帝1765-1790
  • レオポルト2世皇帝1790-1792
  • フランツ2世皇帝(オーストリア皇帝フランツ1世)1792-1806
ライン同盟
連邦主席
  • オーストリア皇帝フランツ1世1815-1835
  • オーストリア皇帝フェルディナント1世1835-1848
  • ヨハン大公(帝国執政)1848-1849
  • オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世1850-1866
  • プロイセン王ヴィルヘルム1世(北ドイツ連邦)1867-1871
ドイツ皇帝
  • プロイセン王ヴィルヘルム1世1871-1888
  • プロイセン王フリードリヒ3世1888
  • プロイセン王ヴィルヘルム2世1888-1918
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