世本

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世本(せほん)』は中国三皇五帝時代から春秋時代に至る帝王、諸侯大夫の氏姓や系譜、居所、、及びそれら王侯卿大夫の発明に帰せられる器物の由来等を誌した書。唐代には太宗の諱を避けて系本(けいほん)』と呼ばれる場合もあった[要検証 – ノート]

完本は逸するが諸書に引用された逸文が遺されている。

成立

原書の成立時期は、戦国時代中期以降と見たり[1]その末期と見たり[2]と諸説あって定かでないが、司馬遷が『史記』を編むに際して参照したというので[3]遅くとも漢初には成立していた事は判る。

編著者も不明で、初めて著録された後漢班固の『漢書』では古事に精通する史官の手に成るものとされ[4]、その場合、『周礼』春官瞽矇条に「諷誦詩世奠繋、鼓琴瑟((瞽矇は)詩と世の奠繋を諷誦し、琴瑟を鼓す)」、同小史条に「掌邦国之志、奠繋世、弁昭穆((小史は)邦国の志を掌り、繋世を奠(さだ)め、昭穆を弁ず)」とある「世奠繋」や「繋世」が本書の元になったものと考えられ[5]、晋皇甫謐に至っては春秋時代の左丘明の撰とまで唱えている[6]

なお、陳夢家始皇帝時代に趙国の人の手に成るものと説くが[7]、その論拠から見てやや早計であろうとの批判もある[8]

伝世史

成立して後に漢室の秘府に所蔵されたとされ、『漢書』芸文志春秋家に「世本十五篇」と見え[9]、上述のように『史記』(紀元前90年頃成著)の編述に供された他、成帝綏和元年(紀元前8年)に孔何斉(こうかせい)(中国語版)殷紹嘉(いんしょうか)侯(中国語版)に封ぜられる際の典拠の一とされている[10]。その後、後漢の宋均(そうきん)[要検証 – ノート]応劭(おうしょう)宋衷、更に年代等不明の王(おう)氏、孫検(そんけん)等が注を加え[11]、それら校注本も原書と併行して流布したらしい為に唐期になると原書と校注本との差も判然としなくなったようで[12]、初唐の『隋書経籍志には「世本王侯大夫譜二巻」「世本二巻劉向撰」「世本四巻宋衷撰」と3書が併録[13]、旧新両『唐書』には宋衷撰「世本四巻」、「世本別録一巻」、宋均注「帝譜世本七巻」、王氏注「世本譜二巻」の4書が併録され[14]、この中で漢劉向撰とするのは劉向が秘府蔵書の整理校訂を担当した際に筆写乃至摘録したものの如く、また「世本王侯大夫譜」は原書15篇中の「譜」篇であったかも知れないが[15]、宋衷撰とするのは明らかに漢宋衷の校注本ではないかとされているから、この段階で原書と校注本との判別が不可能な状態となっていた模様だとされている[12]。その一方で、『漢書』芸文志に「黄帝以来訖春秋時」とあるのに現伝逸文には戦国末から初の記事が見えるので、唐劉知幾をして秦末の一好事家の手に成るものと断ぜしめた[16]ような秦漢以降の人の手が加わったものも混淆したらしく[17]、それと併せて原書にせよ校注本にせよ転写を重ねる中での誤写も増え、唐孔穎達は初唐当時に伝わる『世本』を誤りが多く本来の姿を失した依憑とするに足りないものと評し[18]、更に司馬貞に拠れば唐初期に既に散逸が始まっていたという[19]

それはそれとして、北宋期に旧新両唐志に著録されたり『太平御覧』他に引用されたりし、また南宋高似孫(こうじそん)が輯本を編む[20]等しているのでそれなりに伝わっていた様が窺えるが、それを最後に輯本共々亡佚したようで以降は古書に引用された逸文が伝えられるのみとなった。なお、亡佚の時期に就いて、南宋代に本文は失せたが宋衷等の注本はなお存したとする説もあるが定かでない[20]

以降に逸文収集と輯本編纂の動きが始まり、に入ってはそれが盛んとなって、銭大昭(せんたいしょう)(中国語版)、(1)王謨(おうぼ)(中国語版)、銭本を底にした(2)孫馮翼(そんひょうよく)(中国語版)、その孫本を補訂した(3)陳其栄(ちんきえい)、洪貽孫(こういそん)、その洪本や孫星衍所蔵の明澹生堂(たんせいどう)輯本[要検証 – ノート]等を底にした(4)秦嘉謨(しんかぼ)、(5)張澍、(6)雷学淇(らいがくき)(中国語版)、(7)茆泮林(ぼうはんりん)、等がそれぞれ輯本を編み、また(8)王梓材(おうしざい)(中国語版)が『世本集覧』を著している。この中、(3)陳本迄は未だ乱雑で、(4)秦本は最も多く取材するが他書の条文も混入しており、(5)の張本は恣意的な解釈が多く[20]、厳密性では(7)茆本が最も優れ(6)雷本がこれに亜ぐ[21]。また、(8)『集覧』は目録と通論を主として逸文自体は載せていない。なお、上記(1)から(8)が『世本八種』と題されて1957年に商務印書館から翻刻されている。

内容

『漢書』芸文志に15篇あると録されるが、『世本八種』段階では帝王、諸侯、卿大夫それぞれの世系を誌す「帝繋(帝王世本)」「王侯世(諸侯世本)」「卿大夫世(卿大夫世本)」3篇、それら帝侯卿大夫に由来する各所の氏族を誌す「氏姓篇」、王侯の都邑地を誌す「居篇」、王侯卿大夫各人の創作に関わる器物を誌す「作篇」、各人の諡号を誌す「諡法篇」、の計7篇が推定復元されるのみである。その他「譜」(『隋書』経籍志に録す「世本王侯大夫譜」カ)の存在や、伝(注釈)を付す1記事の遺存[22]から他にも「伝」の存した可能性が指摘されるが[15]詳らかでなく、また、古くは帝王に関する記事を「帝繋」、諸侯卿大夫のそれを「世本」と称したとされるが[23]それも定かでない。

本書の特徴は氏姓の来源や居住地、器物の由来といった従前の史書にない社会的文化的事象への関心が見える点と、その関心に沿った分類を行う事で読者に比較推論の便を与える書ともなったであろう点とにあるとされるが[24]、その他、「作篇」に見える文化英雄の創造発明譚や古代帝王の系譜等に誌される内容がまま「神話なき国」と呼ばれる中国の失われた神話の断片と認められるので、「隠された」乃至は「枯れたる」と評せられる[25]その神話の原姿を復元する一資料ともなっている[17]

脚注

  1. ^ 新城新藏「孔孟紀年」二孔子生卒年月日考、『高瀨博士還暦記念支那學論叢』所収、弘文堂書房、昭和3年。
  2. ^ 鈴木博「主要文献解題」(袁珂(鈴木訳)『中国の神話伝説』付録2)、青土社、1993年。
  3. ^ 『漢書』司馬遷伝(巻62列伝第32)論賛。後漢班彪「後伝略論」(『後漢書』班彪伝(巻70上列伝第30上)所引)。
  4. ^ 芸文志春秋家(巻30志第10)。因みに、劉向に依る同趣意の文が司馬貞『史記索隠』に引かれているが(史記集解序世本語注)、茆泮林はこの文を『別録』の逸文と見ている(『十種古逸書』所収『世本』「世本諸書論述」、道光元年。維基文庫版「世本」に拠る(平成27年12月17日閲覧))。
  5. ^ 『周礼』鄭玄注と賈公彦疏(『周礼注疏』(十三経注疏本)巻23、巻26)。
  6. ^ 北斉顔之推『顔氏家訓』17書証篇所引『帝王世紀』。
  7. ^ 「世本考略」『六国紀年』上海人民出版社 1956年[要検証 – ノート]
  8. ^ 藤田勝久「『史記』戦国系譜と『世本』」『愛媛大学教養部紀要』28-I、愛媛大学教養部、平成17年。
  9. ^ 前掲巻30志第10。
  10. ^ 『漢書』梅福伝(巻67列伝第37)。
  11. ^ 内藤戊申「世本」(『アジア歴史事典』)。鈴木前掲解題。
  12. ^ a b 新城前掲論考。
  13. ^ 巻33志第28史。
  14. ^ 『旧唐書』巻46志第26経籍下雑譜牒。『新唐書』巻58志第48芸文2。
  15. ^ a b 茆前掲世本「序」(平成27年12月17日閲覧)。
  16. ^ 『史通』外篇古今正史第2(巻12)。
  17. ^ a b 鈴木前掲解題。
  18. ^ 『春秋正義』第16宣公2年疏、巻第32昭公27年疏。
  19. ^ 前掲索隠巻11燕召公系家宣侯条。
  20. ^ a b c 内藤前掲「世本」。
  21. ^ 前掲鈴木解題、内藤「世本」。太田幸男「世本」(『中国史籍解題辞典』)。
  22. ^ 『史記索隠』巻13魏系家文侯(魏)都条に窺える。
  23. ^ 『周礼』春官瞽矇及び小史条の賈公彦疏(前掲注疏)。
  24. ^ 梁啓超(小長谷達吉訳)『支那歴史研究法』第2章「史書としての国語及び世本の價値」、改造社、昭和13年。
  25. ^ 白川静『中国の神話』中公文庫、昭和55年。特に第1章「中国神話学の方法」と第8章「神話と伝統」。

参考文献

中国語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります。
世本(おそらく十種古逸書本)
  • 平凡社編『アジア歴史事典』第5巻、平凡社、1960年
  • 近藤春雄『中国学芸大事典』大修館書店、昭和53年
  • 神田信夫・山根幸夫編『中国史籍解題辞典』燎原書店、1989年
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