二宮忠士
基本情報 | |
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国籍 | 日本 |
出身地 | 愛媛県 |
生年月日 | (1945-06-05) 1945年6月5日(79歳) |
身長 体重 | 177 cm 76 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 内野手 |
プロ入り | 1967年 ドラフト2位 |
初出場 | 1968年5月19日 |
最終出場 | 1970年10月7日 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
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二宮 忠士(にのみや ただし、1945年6月5日 - )は、愛媛県出身の元プロ野球選手。ポジションは内野手。
来歴・人物
八幡浜高校では、1963年の春季四国地区高等学校野球大会に初優勝するものの、甲子園には届かなかった。卒業後は東芝へ入社。1966年の都市対抗野球では中心打者として、チームの準々決勝進出に貢献する。
1967年ドラフト2位で東映フライヤーズに入団。100メートル11秒台の俊足、鉄砲肩、ノンプロ通算20本塁打という実績を認められてのプロ入りだった。1968年にはジュニアオールスターに選出され、翌年は16試合に出場するが、打撃面で伸び悩む。病気を患い4年目の1971年限りで引退。
引退後の1979年7月には山田潔団長の下、大友工・大橋勲と共に「日本プロ野球コーチ団」団員として中国で野球指導を行う[1]。
1984年5月には山田と共に甘粛省蘭州市に招待され、現地の野球・ソフトボールチームを指導[1]。
詳細情報
年度別打撃成績
年 度 | 球 団 | 試 合 | 打 席 | 打 数 | 得 点 | 安 打 | 二 塁 打 | 三 塁 打 | 本 塁 打 | 塁 打 | 打 点 | 盗 塁 | 盗 塁 死 | 犠 打 | 犠 飛 | 四 球 | 敬 遠 | 死 球 | 三 振 | 併 殺 打 | 打 率 | 出 塁 率 | 長 打 率 | O P S |
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1968 | 東映 | 4 | 5 | 5 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 4 | 0 | .000 | .000 | .000 | .000 |
1969 | 16 | 18 | 18 | 0 | 4 | 0 | 1 | 0 | 6 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 7 | 1 | .222 | .222 | .333 | .555 | |
1970 | 5 | 10 | 9 | 1 | 1 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 3 | 0 | .111 | .200 | .111 | .311 | |
通算:3年 | 25 | 33 | 32 | 1 | 5 | 0 | 1 | 0 | 7 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 14 | 1 | .156 | .182 | .219 | .401 |
背番号
- 8 (1968年)
- 13 (1969年 - 1971年)
脚注
- ^ a b 日中国交正常化による日中間の野球交流がその後の中国の野球活動へ及ぼした影響―1945年から1960年までと1972年から1989年までの両期間の野球活動の比較―
関連項目
東映フライヤーズ - 1967年ドラフト指名選手 | |
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指名選手 |
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