千葉胤平

 
凡例
千葉胤平
時代 南北朝時代
生誕 不詳
死没 建武2年(1335年
別名 孫太郎(通称)
官位 大隅
幕府 鎌倉幕府
氏族 千田氏
父母 父:千葉胤貞、母:曾谷教信の娘
兄弟 高胤胤平、胤継
テンプレートを表示

千葉 胤平(ちば たねひら)は、南北朝時代の武将千葉胤貞嫡子(次男)。

生涯

曽祖父頼胤の没後、曽祖父に代わって祖父宗胤異国警固番役として肥前国に赴き下総国を離れた間に大叔父胤宗千葉氏家督を横領されてしまった。

そのため父の胤貞は、大叔父の子貞胤と千葉氏の家督を賭けて争うが、そのような中の建武元年12月1日(1334年12月27日)、父より肥前国小城郡千田荘および八幡荘の総領職を継ぐ[1]。だがその後胤平についての記録が残っておらず、大叔父の子貞胤との争いには父の胤貞が前面に出ていることから、総領職を継いでまもなく没したものと推測されている。

下総国の所領はさらに弟の胤継(たねつぐ)に譲られ、肥前国小城郡については父の養子であった叔父の胤泰の知行とし、分割して継承されることとなった[2]

脚注

  1. ^ 『中山法華経寺文書』 建武元年12月1日付 「千葉胤貞譲状」 より。 『雲海山岩蔵寺浄土院無縁如法経過去帳』の「当郡代々地頭」には胤貞と胤平との間に高胤の名が見られ、彼が胤平の兄(胤貞の長男)とみられる。この高胤が小城郡を領していたことは『中山法華経寺文書』 某年8月13日付の「平高胤寄進状」にもうかがえ、実際は当初嫡子であった高胤が父の領地を継いだものの早世したため、一旦父である胤貞が再度家督および領地を継承し、その後に胤平へと継承された可能性が高い
  2. ^ 小笠原長和「建武期の千葉氏と下総千田荘」『史観』65・66・67合冊、1962年。 
月星紋千田氏第5代当主
宗家
武蔵千葉氏
下総千葉氏

分家・支流

千田氏
  • 泰胤
  • 宗胤
  • 胤貞
  • 高胤
  • 胤平
  • 胤継
  • 胤氏
  • 義胤
  • 胤清
  • 通胤
  • 胤満
  • 胤泰
  • 胤幸
  • 胤仲
  • 胤範
  • 胤親
  • 胤嗣
  • 胤保
  • 九兵衛
  • 善左衛門
九州千葉氏
  • 胤泰
  • 胤基
  • 胤鎮
  • 胤紹
  • 元胤
  • 教胤
  • 胤朝 | 西千葉氏と東千葉氏に分裂
西千葉氏
  • 胤資
  • 胤治
  • 胤繁
  • 胤勝
  • 胤連
  • 胤信
  • 常貞
  • 常治
  • 常範
  • 胤貞
  • 常長
  • 常安
  • 常良
  • 常庸
  • 胤繁
  • 胤廣
東千葉氏
  • 表示
  • 編集