坂下定夫
Sadao SAKASHITA | |
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基本情報 | |
名前 | 坂下 定夫 |
生年月日 | (1950-11-24) 1950年11月24日(73歳) |
身長 | 168 cm (5 ft 6 in) |
体重 | 64 kg (141 lb) |
国籍 | 日本 |
出身地 | 静岡県 |
経歴 | |
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坂下 定夫(さかした さだお、1950年11月24日 - )は静岡県出身[1]のプロゴルファー。
来歴
伊東商業高校ゴルフ部では部長の斎藤元謙教諭にマナー、忍耐、根性の三原則を徹底的に仕込まれ、破るとたちまち拳骨を食らったが、坂下は「斎藤先生は血の通った、いいおやじでした」と話している[2]。
同校の先輩には中村稔[3]・土山録志[4]・岩下吉久[5]がいる。
坂下は1972年にプロ入りし、1973年の静岡オープンでプロ初優勝を飾ったが、ツアー競技として賞金ランキングに加算される前年の大会であったためシード入りを果たすことはできなかった[1]。
1975年の総武国際オープンでは2日目に単独首位に立ち[6]、同年の関東プロでは最終日に67をマークし謝敏男(中華民国)・青木功・尾崎将司に次ぐ4位[7]に入った。
1976年にはフジサンケイクラシックで2日目と最終日に69をマークし日吉定雄、ミヤ・アエ(ビルマ)と並んでの8位タイ[8]に入り、同年の賞金ランキング46位がベストであった[1]。
1982年の中日クラウンズでは3日目に藤木三郎、ジョニー・ミラー(アメリカ)、鷹巣南雄と共に4バーディ、ノーボギーで急浮上してイーブンパーの3位タイで並び、最終日には藤木・呂西鈞(中華民国)と並んでの5位タイでフィニッシュ[9]。かながわオープン[10]では豊田明夫・青木・杉原輝雄・鷹巣・栗原孝・中村通に次ぎ、矢部昭・山本善隆・尾崎直道・森憲二と並んでの7位タイに入った[11]。広島オープンでは初日を謝敏・中島秀徳・前田新作・宮本省三と並んでの2位タイ[12]でスタートし、2日目には海老原清治・前田・上野忠美と並んでの7位タイ[13]、3日目には謝敏・森と並んでの5位タイ[14]に着けた。
1991年の水戸グリーンオープンでは芹澤大介・中村輝夫・福沢孝秋と共に松永一成の2位タイに入り[15]、1996年の静岡オープン[16]を最後にレギュラーツアーから引退。
2001年からシニア入りし、参戦2シーズン目の2002年にはファンケルクラシックで最終日にベストスコアの5アンダー67の好スコアをマークして前日までの37位から一気に31人をごぼう抜きして4位タイに躍進、この成績が大きく物を言って賞金ランキング24位に入り、初のシード入りを果たした[1]。
主な優勝
- 1973年 - 静岡オープン
- 1989年 - インペリアルオープン
脚注
- ^ a b c d 2003年シニア選手紹介
- ^ (79)仰げば尊しゴルフの恩~伊東商高の斎藤元謙教諭
- ^ PGA会員詳細 - 公益社団法人 日本プロゴルフ協会
- ^ 土山 録志 - PGA会員詳細 - 公益社団法人 日本プロゴルフ協会
- ^ 岩下 吉久 イワシタ ヨシヒサ YOSHIHISA IWASHITA
- ^ 坂下定夫 プロゴルファー 総武国際オープンで単独トップに立つ(著作権・スポニチ)
- ^ 朝日新聞縮刷版p95 昭和50年8月4日夕刊7面「謝敏初優勝を飾る 青木・尾崎2打差で2位 関東プロ・ゴルフ」
- ^ 朝日新聞縮刷版p485 昭和51年5月17日朝刊19面「鈴木規、呂をかわす プレーオフ フジサンケイ・ゴルフ」
- ^ 中日クラウンズ | CBCレビ | クラウンズの歴史
- ^ 歴史 | 横浜カントリークラブ
- ^ 朝日新聞縮刷版p175 昭和57年7月5日朝刊19面
- ^ 朝日新聞縮刷版p935 昭和57年9月24日夕刊17面「草壁ら三人並ぶ 広島オープンゴルフ」
- ^ 朝日新聞縮刷版p955 昭和57年9月25日朝刊17面「小林抜け出る 広島オープン」
- ^ 朝日新聞縮刷版p998 昭和57年9月26日朝刊16面「羽川がトップ 広島オープン」
- ^ 【公式】水戸グリーンカントリークラブ
- ^ 坂下 定夫選手 年度別大会成績 - 日本ゴルフツアー機構 - The Official Site
外部リンク
- 坂下 定夫選手 プロフィール - 日本ゴルフツアー機構 - The Official Site