奥原晴湖
奥原 晴湖(おくはら せいこ、天保8年8月15日(1837年9月14日) - 大正2年(1913年)7月28日)[1][2][3]は、幕末から明治期の画家。野口小蘋とともに明治の女流南画家の双璧といわれ、また安田老山と関東南画壇の人気を二分した。
本名は池田せつ(節)[1][2]もしくは節子[3]、通称:せい子[2]。はじめ石芳と号するが、のちに秋琴・珠琴・蘭瑛・雲錦・静古・星古などと号した[4]。堂号(居宅・画室)に墨吐煙雲楼・繍水草堂など。下総国古河宿(現在の茨城県古河市)出身。
略歴
古河藩大番頭の池田繁右衛門政明の四女[1][4](三女)[2][3]に生まれる。母はきく。蘭学者の鷹見泉石は伯父にあたる[要出典]。経学を茅根一鴎、書を小山霞外[4]・小山悟岡に就いて修めた。画は1853年(嘉永6年)16歳で谷文晁門の枚田水石に南北合体の画風を学ぶ[4]。やがて渡辺崋山に私淑し南画に転向する。ただし、南画に転向した理由としては諸説あり、薄井龍之からの感化という説もある[5]。
1865年(慶応元年)、母方の親戚である奥原源左衛門の養女となり江戸に出て[4]、上野摩利支天横丁に新居を構えた[4]。新居には「墨吐煙雲楼」と看板を掲げ[4]、この頃「晴湖」と号した[4]。
明治時代に入ると、木戸孝允や山内容堂の庇護を得て、多くの文人と交流した[4]。画家を生業とするお披露目会に大沼枕山・鱸松塘・関雪江・福島柳圃・上村蘆洲・高斎單山・山内香溪・松岡環翠・坂田鴎客・福島柳圃・服部波山など25名もの画家・書家を招いた。このとき「不忍池集」とした合筆を贈られている。[要出典]
1870年(明治3年)清の画家の鄭板橋を研究し、その書法を学ぶ[4]。1971年(明治4年)春暢家塾を開業[4]。最盛期には門人は300人を超えたといわれる[4]。同年発令された「断髪脱刀令」に応じて断髪した[4]。1874年(明治7年)に鷲津毅堂・小永井小舟・市河萬庵・川上冬崖らと雅会「半間社」を結成[4]、文人画隆盛に尽力する。1876年(明治9年)に当時学生だった岡倉覚三(天心)が晴湖に入門している[4]。
1882年(明治15年)のフェノロサの講演「美術真説」以降、文人画の人気は低迷し、家塾を閉塾する[4]。1891年(明治24年)埼玉県北埼玉郡成田村(現在の熊谷市)上川上へ隠棲し[4]、作風を近代南宋画風に一新する[4]。この頃「繍仏草堂」「繍水草堂」「寸馬豆人楼」などの堂号を用いた[4]。
1913年(大正2年)7月28日、77歳で死去[1][3][4]。養女に奥原晴翠がいる[4]。
代表作
- 「蓮池小禽図」 小野湖山賛
- 「百事如意ノ図」 明治10年(1877年)(第1回内国勧業博覧会)
- 「枯木群鳥図」[1] 明治16年(1883年)(東京博覧会出品) 東京国立博物館蔵
- 「墨堤春色図」[2] 明治20年(1887年) 絹本淡彩 二曲一双 古河歴史博物館蔵 古河市指定文化財
- 「月ケ瀬梅渓図」 明治29年(1896年) 古河歴史博物館蔵 古河市指定文化財
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- 七言律詩 明治7年(1874年)頃 絹本墨書 成田山書道美術館
- 天地石壁図 明治12年(1879年) 絖本淡彩 古河歴史博物館
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- 梅窓佳人図 明治40年(1907年) 紙本淡彩
- 花鳥図(倣華嵒) 明治41年(1908年) 絹本着色
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出典
- ^ a b c d 『日本人名大辞典』講談社、2001年12月6日、424頁。
- ^ a b c d “コトバンク 朝日日本歴史人物事典 奥原晴湖”. 2023年6月16日閲覧。
- ^ a b c d 『国史大辞典』吉川弘文館、1980年7月1日、799頁。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u “奥原晴湖(おくはらせいこ)女流南画家の大家”. 熊谷市立江南文化財センター. 2023年2月27日閲覧。
- ^ 山内長三 (1976). “奥原晴湖:彼女の生き方と作品”. 三彩 (351): 44-57.
参考文献
外部リンク
- ウィキメディア・コモンズには、奥原晴湖に関するカテゴリがあります。