松平好景

 
凡例
松平 好景
時代 戦国時代
生誕 永正15年(1518年
死没 永禄4年4月15日(1561年5月28日
別名 又八郎、大炊助
戒名 光真院殿弧峯源秀大居士
墓所 本光寺(愛知県額田郡幸田町深溝)
主君 徳川家康
氏族 深溝松平家
父母 松平忠定:松平親長の娘
兄弟 好景、定政、浅野定清、康定、市川好之、景行、大原正親室、稲生某室、菅沼定村正室、山本加賀室、小笠原主膳室、佐野孫太郎室
正室松平清定の娘
伊忠、親定、小笠原安次室、松平信一継室、松平清宗
テンプレートを表示

松平 好景(まつだいら よしかげ)は、戦国時代の武将。又八郎、大炊助と称す。深溝松平家2代。三河国額田郡深溝城主(愛知県額田郡幸田町深溝)。

略歴

初代当主・松平忠定の子として誕生。

松平宗家代々に仕える。永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いでは松平元康(徳川家康)に従い、大高城撤退で殿軍を務める。元康の三河平定のため、永禄4年(1561年)、中島城(愛知県岡崎市中島町)主・板倉重定を攻めて落城させ、戦後、戦功により中島城を与えられ、嫡男・伊忠を入れた。同年4月15日、東条城吉良義昭酒井忠尚の守る上野上村城(豊田市上郷町)を急襲したため、元康の命により、伊忠を援軍に向かわせる。しかし、今度は手薄となった中島城を攻められ、深溝城にいた好景は一族郎党50騎ばかりの兵で向かい、中島城に入るが、それを吉良義昭方は中島の町裏に300人余の兵で待ち伏せた。好景は名の知れた勇士で、力戦奮闘して逃げる敵を深追いし、幡豆郡永良(西尾市下永良町)の善明堤近くで縦横に奮戦していたときに、馬の腹帯が切れて鞍が動き、馬から飛び降りたところを尾関修理の矢が当たって深手を負い、山岡薬医に首を切られて討死した(善明堤の戦い)。享年44。弟の定政、定清、好之、景行や家臣・板倉好重勝重の父)らも共に討死した。

松平好景の墓(幸田町本光寺)

墓所は深溝松平家の菩提寺・瑞雲山本光寺。法名は「光真院殿弧峯源秀大居士」。好景の討死した地(西尾市下永良町鎮守)には、松平好景戦死之地入口の石碑と顕彰碑(継植松碑)がある。また、向野墓所(旧本光寺、額田郡幸田町深溝)には、父・忠定の首塚(源元公墳松)と好景の首塚(源昭公墳松)が並んであり、彼の首が埋められていると考えられる。

なお、没年については弘治2年(1556年)説もある(『家忠日記』天正6年(1578年)3月4日条)。

系譜

参考文献

  • 寛政重修諸家譜.第1輯』巻第29 國民圖書(1922年出版) 148頁
  • 三河古書全集: 『校正三河後風土記』 第1巻 国立国会図書館デジタルコレクション 190頁-193頁
  • 『家康と松平一族』 安城市歴史博物館編集(2021年発行) P.38~42深溝家
深溝松平家当主(1531年 - 1561年)
松平郷 信広 長勝 勝茂 信吉 親長 由重 尚栄 重和 信和 親貞 尚澄 親相 信乗 信言 信汎 頼載 信英 信博 九洲男 信泰 英男 弘久 輝夫
宗家 信光 竹谷 守家 守親 親善 清善 清宗 家清 忠清 清昌 清直 清当 義堯 義著 義峯 守惇 守誠 善長 清良 清倫 敬信
宗家 親忠 大給
宗家 長親 宗家 信忠 宗家 清康 広忠 家康 徳川氏
三木 信孝 重忠 忠清 断絶
鵜殿 康孝 康定 清長 清吉 清忠 清政 清次 祐義 義清 祐教 清門 義崇 義理 健三郎 鉄太郎 富次郎
福釜 親盛 親次 親俊 康親 康盛 康俊 康兆 康永 断絶
桜井 信定 清定 家次 忠正 忠吉 家広 忠頼 忠重 忠倶 忠喬 忠名 忠告 忠宝 忠誨 忠栄 忠興 忠胤 忠養
東条 義春 忠茂 家忠 忠吉 断絶
藤井
滝脇 乗清 乗遠 乗高 乗次 正貞 正勝 重信 信孝 信治 信嵩 昌信 信義 信圭 信友 信賢 信進 信書 信敏 信成 信広 信鑰 宏光 平人
形原 与副 貞副 親忠 家広 家忠 家信 康信 典信 信利 信庸 信岑 信直 信道 信彰 信志 信豪 信義 信正 信興 信美 忠正
大草 光重 親貞 昌安 昌久 三光 正親 康安 正朝 正永 断絶
五井 忠景 五井 元心 信長 忠次 景忠 伊昌 忠実 伊耀 忠益 忠明 忠根 忠寄 忠命 忠元 忠質 忠凱 弘之助
深溝 忠定 好景 伊忠 家忠 忠利 忠房 忠雄 忠俔 忠刻 忠祇 忠恕 忠馮 忠侯 忠誠 忠精 忠淳 忠愛 忠和 忠威 忠諒 忠貞
能見
長沢 親則 親益 親清 勝宗 一忠 親広 政忠 康忠 康直 松千代 忠輝 直信 昌興 親孝 親応 親芳 忠道 忠敏 忠徳