紀元前515年
世紀 | 前7世紀 - 前6世紀 - 前5世紀 |
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十年紀 | 前530年代 前520年代 前510年代 前500年代 前490年代 |
年 | 前518年 前517年 前516年 紀元前515年 前514年 前513年 前512年 |
紀元前515年(きげんぜんごひゃくじゅうごねん)は、西暦(ローマ暦)による年。
紀元前1世紀の共和政ローマ末期以降の古代ローマにおいては、ローマ建国紀元239年として知られていた。紀年法として西暦(キリスト紀元)がヨーロッパで広く普及した中世時代初期以降、この年は紀元前515年と表記されるのが一般的となった。
他の紀年法
できごと
ギリシア
中国
- 魯の昭公が斉に赴き、斉から帰国して鄆に留まった。
- 呉が楚を攻撃し、公子掩余や公子燭庸が軍を率いて潜を包囲した。楚の莠尹然や工尹麇が潜の救援に向かった
- 呉王僚が季札を晋に派遣した。
- 呉王僚が公子光の命を受けた刺客の専諸に暗殺され、専諸もその場で殺された[1]。
- 呉の公子掩余が徐に逃れ、公子燭庸が鍾吾に逃れた。
- 楚の左尹の伯宛が費無忌の讒言を信じた令尹の嚢瓦(子常)の攻撃を受けて自殺した。
- 晋の士鞅・宋の楽祁・衛の北宮喜・曹人・邾人・滕人が扈で会合した。
- 魯の仲孫何忌(孟懿子)と陽虎が昭公のいる鄆を攻撃した。
- 楚の令尹の嚢瓦は伯宛を死なせたことを国人に非難され、費無忌と鄢将師を滅ぼすことで償いとした。
- 魯の昭公が再び斉に赴き、斉から帰国してまた鄆に留まった。
- 曹の悼公が、抑留先の宋で没し、声公が即位した[2]。
芸術・建築
- 2月25日 - 第二神殿が完成した[3]。
- エウフロニオスがサルペードーンの死を描いた赤絵式の装飾を施したクラテール(大型の甕)を制作した。現在、この作品は、ニューヨークのメトロポリタン美術館が所蔵している。
誕生
「Category:紀元前515年生」も参照
死去
「Category:紀元前515年没」も参照
- アルケシラオス3世(英語版) - キレナイカの古代キュレネ王国第6代のギリシア人王が暗殺された。
- 呉王僚 - 春秋時代の呉の王(紀元前526年即位)。
- 悼公 - 春秋時代の曹の君主(紀元前524年即位)。
- 伯州犂 - 楚の6代の王に仕えた政治家。(生年不明)
- 費無忌 - 楚の平王に仕えた政治家。
- フェレティマ(英語版) - キュレネ王国のバトス3世(英語版)の妻、バトス朝(英語版)では記録に残された最後の王妃。
- ポリュクラテス - アイアケス(英語版)の子、紀元前538年ころから紀元前522年ころまでサモス島の僭主。
脚注
注釈
出典
[脚注の使い方]
関連項目
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