葛西晴信
凡例 葛西 晴信 | |
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時代 | 戦国時代 |
生誕 | 天文3年(1534年) |
死没 | 慶長2年10月9日(1597年11月18日) |
別名 | 信清[1] |
諡号 | 長徳院殿智山宗彗禅定門 |
官位 | 左京大夫[1] |
幕府 | 室町幕府 |
氏族 | 葛西氏 |
父母 | 父:葛西晴胤、母:黒川景氏の娘 養父:葛西親信 |
兄弟 | 女子(長江月鑑斎室)、親信、晴信、胤重 |
子 | 清高、信秀 |
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葛西 晴信(かさい はるのぶ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての大名。第15代当主葛西晴胤の子[1]。第16代当主葛西親信の弟[注釈 1]で養子。葛西氏の第17代当主。
略歴
伊達氏と手を結んで元亀2年(1571年)と天正元年(1573年)に大崎義隆と戦った[1]。外交的にも永禄12年(1569年)に上洛して時の天下人・織田信長に謁見して[1]所領を安堵されている。しかし大崎氏との抗争に明け暮れた晴信は、天正18年(1590年)の豊臣秀吉の小田原征伐に参陣するつもりでいたが、数年来続く家臣らの反乱(浜田広綱など)が心配されたため当人が小田原に参陣できず、奥州仕置により改易された。
晴信の死には諸説があり詳しくわかっていない。一説には、改易後に諸国を流浪し、加賀で慶長2年(1597年)に64歳で死去したという説がある[1]。また、後世に作られた『葛西真記録』によれば、秀吉の奥州平定軍に対して徹底抗戦したが衆寡敵せず、寺池城もしくは佐沼城で戦死したとされる[1]が、豊臣氏側にその記録はない。
脚注
注釈
- ^ 阿部 & 西村 1990では親信の生年が天文16年(1547年)になるので、この場合は親信が弟となる。
出典
- ^ a b c d e f g 阿部 & 西村 1990.