藤原国通

 
凡例
藤原 国通
時代 平安時代末期 - 鎌倉時代前期
生誕 安元2年(1176年[1]
死没 正元元年(1259年)4月[1]
別名 坊城中納言[2]、有栖川黄門[3]
官位 従二位中納言
主君 後鳥羽天皇土御門天皇順徳天皇仲恭天皇後堀河天皇
氏族 藤原北家中御門流
父母 父:藤原泰通、母:高倉院新中納言[注 1][5]
兄弟 藤原経通、国通、朝通、広通、覚愉、寛俊、道寛、信宗、正親町三条公氏室、女子[注 2][7][8]
北条時政の娘[注 3][10][9]
道寛、花山院通雅[11]
猶子:富士姫君[注 4][13]
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藤原 国通(ふじわら の くにみち)は、鎌倉時代前期の公卿

略歴

中御門流藤原氏の支流・権大納言泰通の次男。寿永2年(1183年)に叙爵を受け、翌年侍従に任官。以後は国司を兼ねつつ、建仁元年(1201年)には右近衛少将元久3年(1206年)には正四位下に進み、翌年には左近衛中将となった。国通は妻に鎌倉幕府初代執権北条時政の娘を迎えており[注 3][10]、京都・鎌倉間を往来するなど武家方とは親密な関係にあった[14]建保2年(1214年)に蔵人頭を兼ねて頭中将となり、建保6年(1218年)には参議となって公卿に列した[5]。翌年、従三位に叙され[15]鎌倉鶴岡八幡宮で行われた源実朝右大臣拝賀式に坊門忠信西園寺実氏平光盛難波宗長とともに公卿として列参し、そこで実朝暗殺事件に遭遇している[16]

承久の乱の明けた承久3年(1221年)12月、後堀河天皇即位の礼において左侍従を務める[17]貞応元年(1222年)、火災で自邸の楊梅坊城第が全焼し、家記数百巻を焼失する[18]。同年、正三位[19]嘉禄元年(1225年)、幕府の推挙を得て権中納言に昇進。安貞2年(1228年)に従二位となり[20]寛喜3年(1231年)には正官に転じたが[21]、翌年一条実有に譲って官を辞し[22]、同年出家[23]。正元元年(1259年)に84歳で薨去した[1]

人物・逸話

  • 50歳前後のころには持病があり、元仁元年(1224年)冬には出仕も止んでいた。その翌年と翌々年には悪化して大病を患ったが、いずれも一命をとりとめている[24][25]
  • 当時の朝廷にあって、滋野井実宣と並んで北条時政の娘[注 3]を妻に迎えており、元久2年(1205年)の牧氏の変で時政と共に伊豆国に流された妻の母牧の方建保3年(1215年)の時政の死後、京都の娘夫妻の元に身を寄せ、贅沢に暮らしていたという。嘉禄3年(1227年)には牧の方によって国通の有栖川亭で時政の十三回忌が盛大に執り行われている。また国通は寛元2年(1244年)には北条泰時の孫娘の富士姫君を猶子に迎えている[13]藤原定家は両者の婚姻を用いた栄達に否定的な見解を示しつつ、家勢のためにもその姿勢を見習おうとしている[14]。自らも嫡男為家の妻に北条氏の血を引く娘[注 5]を迎えた定家とは交流があり、嘉禄元年(1225年)に妻が伊豆に帰ったきり帰京しないことについて相談を持ち掛けている[27]
  • 知恩院が所蔵する木像善導大師立像は、善導を信仰した国通が造立したものである。像は国通が嘉禄元年(1225年)に西岡に建立した持仏堂(のち報恩寺)に納められ、善峯寺を経て室町時代前期に知恩院に移されたもので、鎌倉時代の彫刻の代表作として重要文化財に指定されている[27][28]

官歴

※脚注のない項目はいずれも『公卿補任建保六年条による[5]

系譜

脚注

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注釈

  1. ^ 藤原教良(藤原忠教の子)の娘。近衛天皇典侍高倉天皇女房を務めた[4]
  2. ^ 『尊卑分脈』に「兼良室」とある[6]
  3. ^ a b c 元は平賀朝雅の妻で、生母は牧の方[9]
  4. ^ 北条泰時の孫娘[12]
  5. ^ 為家の妻は、宇都宮頼綱と北条時政の娘との間に生まれた女子である[26]

出典

  1. ^ a b c 『公卿補任』, §寛喜四年.
  2. ^ 『大日本史料』5-3, p. 132.
  3. ^ 『大日本史料』5-17, p. 320.
  4. ^ 『大日本史料』4-1, pp. 268–269.
  5. ^ a b c 『公卿補任』, §建保六年.
  6. ^ 『大日本史料』4-10, p. 866.
  7. ^ 『大日本史料』4-10, pp. 855–866.
  8. ^ 『大日本史料』5-13, pp. 542–543.
  9. ^ a b 『大日本史料』4-13, pp. 469–470.
  10. ^ a b 鈴木 2003, p. 148.
  11. ^ 『尊卑分脉』, §右大臣頼宗公孫.
  12. ^ 吾妻鏡』寛元2年4月10日条。
  13. ^ a b 『吾妻鏡』寛元2年4月10日条。
  14. ^ a b 鈴木 2003, p. 151.
  15. ^ a b 『公卿補任』, §建保七年.
  16. ^ 『大日本史料』4-14, pp. 997–1000.
  17. ^ 『大日本史料』5-1, pp. 335–336.
  18. ^ 『大日本史料』5-1, p. 577.
  19. ^ a b 『大日本史料』5-1, p. 597.
  20. ^ a b 『大日本史料』5-4, p. 548.
  21. ^ a b 『大日本史料』5-6, p. 526.
  22. ^ a b 『大日本史料』5-7, p. 711.
  23. ^ a b 『大日本史料』5-8, p. 202.
  24. ^ 『大日本史料』5-3, p. 537.
  25. ^ 『大日本史料』5-3, p. 573.
  26. ^ 鈴木 2003, p. 147.
  27. ^ a b 『大日本史料』5-3, pp. 35–36.
  28. ^ 林屋, 村井 & 森谷 1979, §知恩院.
  29. ^ 『公卿補任』, §承久二年.
  30. ^ 『大日本史料』5-1, p. 320.
  31. ^ 『大日本史料』5-2, pp. 547–550.
  32. ^ 『大日本史料』5-2, p. 684.

参考文献

  • 鈴木芳道 著「鎌倉前期ふたつの公武婚」、鷹陵史学会 編『鷹陵史学』 29巻、鷹陵史学会、2003年。 
  • 林屋辰三郎; 村井康彦; 森谷剋久 編『京都市の地名』平凡社日本歴史地名大系〉、1979年。ISBN 978-4-582-91012-4。 
  • 東京大学史料編纂所 編『大日本史料 第四編』 1巻、東京大学出版会、1968年。ISBN 978-4-13-090151-2。 
  • 東京大学史料編纂所 編『大日本史料 第四編』 10巻、東京大学出版会、1971年。ISBN 978-4-13-090160-4。 
  • 東京大学史料編纂所 編『大日本史料 第四編』 13巻、東京大学出版会、1972年。ISBN 978-4-13-090163-5。 
  • 東京大学史料編纂所 編『大日本史料 第四編』 14巻、東京大学出版会、1972年。ISBN 978-4-13-090164-2。 
  • 東京大学史料編纂所 編『大日本史料 第五編』 1巻、東京大学出版会、1968年。ISBN 978-4-13-090201-4。 
  • 東京大学史料編纂所 編『大日本史料 第五編』 2巻、東京大学出版会、1968年。ISBN 978-4-13-090202-1。 
  • 東京大学史料編纂所 編『大日本史料 第五編』 3巻、東京大学出版会、1969年。ISBN 978-4-13-090203-8。 
  • 東京大学史料編纂所 編『大日本史料 第五編』 4巻、東京大学出版会、1969年。ISBN 978-4-13-090204-5。 
  • 東京大学史料編纂所 編『大日本史料 第五編』 6巻、東京大学出版会、1970年。ISBN 978-4-13-090206-9。 
  • 東京大学史料編纂所 編『大日本史料 第五編』 7巻、東京大学出版会、1970年。ISBN 978-4-13-090207-6。 
  • 東京大学史料編纂所 編『大日本史料 第五編』 8巻、東京大学出版会、1970年。ISBN 978-4-13-090208-3。 
  • 東京大学史料編纂所 編『大日本史料 第五編』 13巻、東京大学出版会、2006年。ISBN 978-4-13-090233-5。 
  • 東京大学史料編纂所 編『大日本史料 第五編』 17巻、東京大学出版会、1973年。ISBN 978-4-13-090217-5。 
  • 公卿補任』 2巻、吉川弘文館〈新訂増補国史大系〉、2007年。ISBN 978-4-642-04056-3。 
  • 尊卑分脉』 2巻、吉川弘文館〈新訂増補国史大系〉、2007年。ISBN 978-4-64-204062-4。