エティエンヌ=シャルル・ド・ロメニー・ド・ブリエンヌ

エティエンヌ=シャルル・ド・ロメニー・ド・ブリエンヌ
枢機卿
大司教区 トゥールーズ
着座 1763年
離任 1788年
他の役職 宰相
聖職
枢機卿任命 1788年
個人情報
出生 1727年10月9日
フランス王国パリ
死去 1794年2月16日
フランス共和国サンス
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エティエンヌ・シャルル・ド・ロメニー・ド・ブリエンヌÉtienne-Charles de Loménie de Brienne1727年10月9日 - 1794年2月16日)は、フランス王国政治家で、宰相および枢機卿である。

概要

15世紀から続く、リムーザン出身の名家ロメニー家(フランス語版)の子として1727年10月9日にパリで生まれた[1]。学生として優秀な経歴を経て教会に入り、1751年神学博士の学位を修得した[1]。1752年にルーアン副司教(grand vicaire)に任命された[1]ローマを訪問した後、1760年にコンドン司教に就任、1763年にトゥールーズ大司教に転じた[1]1766年から1769年にはモン・サン=ミシェル大修道院長となった。

ジャック・テュルゴーアンドレ・モレレ(英語版)ヴォルテールらの著名な文化人を友人に持ち、1770年にはアカデミー・フランセーズ会員に選出された[1]。聖職者として役職に就くなど活躍する一方で、政治や社会問題にも興味を示し、テュルゴーにいくつかの覚書を送っている[1]

1787年の名士会で議長を務め、シャルル・アレクサンドル・ド・カロンヌの財政政策に反対した[1]。同年5月1日に(実質的にはカロンヌの後任として)財政国務会議議長に就任、国内の生産物取引の自由化や、地方議会の設立、賦役の廃止を実施した[1]印紙税や新しい土地税に関する法令の登録を高等法院に拒否されると、国王ルイ16世を説得してリ・ド・ジュスティス(英語版)(フランス王が主催する高等法院の特別会合で、主に法令登録を目的とする)を開かせ、さらに8月15日に高等法院の評定員をトロワに追放させた[1]。高等法院が印紙税と土地税の代わりに二十分の一税(英語版)を2年間延長させることに同意すると、評定員たちはパリに戻ることを許可された[1]。ブリエンヌは次に1億2000万リーブルの公債発行に関する法令を登録しようとするが、高等法院は再度抵抗した。今度は高等法院が1788年5月8日に高等法院廃止の法令を登録し、その条件として三部会を開くこととした[1]

ブリエンヌはこのときにはサンス大司教に任命されたが、国政では支持を失っており、三部会を開くことに同意しても挽回できず8月29日に辞任した[1]。1788年12月15日に枢機卿となりイタリアに滞在したが、フランス革命の勃発に伴い帰国した[1]。1790年に聖職者民事基本法が制定されると、これに宣誓したことで教皇ピウス6世に批判され、1791年に枢機卿を罷免された[1]。しかし1793年11月9日に反革命の容疑でサンスで逮捕され、1794年2月16日に獄死した[1]。死因は卒中発作か服毒自殺とされる[1]

出典

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p Chisholm, Hugh, ed. (1911). "Loménie de Brienne, Étienne Charles de" . Encyclopædia Britannica (英語). Vol. 16 (11th ed.). Cambridge University Press. pp. 936–937.
公職
先代
ミシェル・ブヴァール・ド・フルキュー(フランス語版)
財務総監として
財政国務会議議長
1787年 – 1788年
次代
ジャック・ネッケル
財務総監として
先代
シャルル・グラヴィエ・ド・ヴェルジャンヌ(英語版)
首席大臣
1787年 – 1788年
次代
ジャック・ネッケル
学職
先代
オノレ=アルマン・ド・ヴィラール
アカデミー・フランセーズ席次18
1770年 – 1794年
次代
ジャン=ジェラール・ラキュエ・ド・セッサ
 
主要事件
1788年
  • 屋根瓦の日(1788年6月7日)
  • ヴィジーユ会議(英語版)(1788年7月21日)
1789年
1790年
  • 高等法院の廃止(1790年2月-7月)
  • 貴族階級の廃止(英語版)(1790年6月19日)
  • 聖職者民事基本法(1790年7月12日)
1791年
1792年
1793年
1794年
1795年
1797年
1799年
 
1792年
1793年
  • 第一次対仏大同盟
  • トゥーロン攻囲戦(1793年9月18日-12月8日)
  • ヴァンデの反乱
  • ネールウィンデンの戦い
  • ファマールの戦い(1793年5月23日)
  • サルデーニャ遠征(1793年5月25日)
  • カイザースラウテルンの戦い (en
  • マインツ包囲戦
  • ワッティニーの戦い (en
  • オンショオットの戦い (en
  • ベルガルド包囲戦
  • ペレストルトの戦い (en
  • 第一次ヴィサンブールの戦い (en(1793年10月13日)
  • トルイヤの戦い (en
  • 第二次ヴィサンブールの戦い (en(1793年12月26日-27日)
1794年
  • ヴィレ=アン=コシの戦い (en(1794年4月24日)
  • ブルの戦い (en(1794年4月30日-5月1日)
  • トゥルネーの戦い (en(1794年5月22日)
  • フルーリュスの戦い (en(1794年6月26日)
  • ふくろう党の反乱 (en
  • トゥールコワンの戦い (en(1794年5月18日)
  • アルデンホーフェンの戦い (en(1794年10月2日)
1795年
1796年
  • ロナートの戦い (en(1796年8月3日-4日)
  • カスティリオーネの戦い(1796年8月5日)
  • タイニンゲンの戦い (en
  • ネレスハイムの戦い (en(1796年8月11日)
  • アンベルクの戦い (en(1796年8月24日)
  • ヴュルツブルクの戦い (en(1796年9月3日)
  • ロヴェレートの戦い (en(1796年9月4日)
  • 第一次バッサーノの戦い (en(1796年9月8日)
  • エメンディンゲンの戦い (en(1796年10月19日)
  • シュリーンゲンの戦い (en(1796年10月26日)
  • 第二次バッサーノの戦い (en(1796年11月6日)
  • カッリアーノの戦い (en(1796年11月6日-7日)
  • アルコレの戦い(1796年11月15日-17日)
  • アイルランド遠征(1796年12月)
1797年
1798年
  • エジプト遠征(1798年-1801年)
  • マニラ奇襲(1798年1月)
  • 1798年アイルランド反乱 (en(1798年5月23日-9月23日)
  • 擬似戦争(1798年-1800年)
  • 農民戦争 (en(1798年10月12日-12月5日)
1799年
  • 第二次対仏大同盟(1798年-1802年)
  • アッコ包囲戦(1799年3月20日-5月21日)
  • オストラッハの戦い (en(1799年3月20日-21日)
  • シュトックアッハの戦い (en(1799年3月25日)
  • マニャーノの戦い (en(1799年4月5日)
  • カッサーノの戦い (en(1799年4月27日)
  • 第一次チューリッヒの戦い (en(1799年6月4日-7日)
  • トレッビアの戦い (en(1799年6月19日)
  • ノーヴィの戦い (en(1799年8月15日)
  • 第二次チューリッヒの戦い (en(1799年9月25日-26日)
1800年
1801年
  • リュネヴィルの和約(1801年2月9日)
  • フィレンツェ条約 (en(1801年3月18日)
  • アルヘシラス湾の戦い (en(1801年7月8日)
1802年
 
軍事指揮官
フランスの旗 フランス陸軍
フランスの旗 フランス海軍
  • シャルル=アレクサンドル・リノワ (en
対仏大同盟軍
オーストリア帝国の旗 オーストリア
グレートブリテン王国の旗 イギリス
ネーデルラント連邦共和国の旗 オランダ
  • ウィレム5世
プロイセン王国 プロイセン
  • ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル公
  • ホーエンローエ=インゲルフィンゲン侯
ロシア帝国の旗 ロシア
スペイン スペイン
  • ルイス・フィルミン・デ・カルバハル
  • アントニオ・リカルドス (en
 
主要人物・党派
王族王党派
フイヤン派
ジロンド派
山岳派
エベール派 (en
過激派
ボナパルト派
その他
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