フランス第一共和政

フランス共和国
République française (フランス語)
1792年 - 1804年 フランス第一帝政
フランスの国旗 フランスの国章
1794年までの国旗国章
国の標語: Liberté, Égalité, Fraternité(フランス語)
自由、平等、友愛
国歌: La Marseillaise(フランス語)
ラ・マルセイエーズ
フランスの位置
フランス共和国の位置(1799年)
公用語 フランス語
言語 オック語
ドイツ語
オランダ語
ブルトン語
バスク語
宗教 理性の祭典
最高存在の祭典
カトリック
カルヴァン派
ルター派
ユダヤ教
首都 パリ
革命政府
1792年 - 1795年 国民公会
1795年 - 1799年総裁政府
1799年 - 1804年統領政府
変遷
バスティーユ襲撃フランス革命 1789年7月14日
ルイ16世の廃位1792年9月21日
公安委員会の恐怖政治1793年9月5日 - 1794年7月28日
奴隷制の廃止1794年2月4日
テルミドールの反動1794年7月24日
ブリュメール18日1799年11月9日
ナポレオンの皇帝即位1804年5月18日
通貨リーブルフランアッシニア
現在フランスの旗 フランス
先代次代
フランス立憲王国 フランス立憲王国
サルデーニャ王国 サルデーニャ王国
原初同盟 原初同盟
オーストリア領ネーデルラント オーストリア領ネーデルラント
コンタ・ヴェネッサン コンタ・ヴェネッサン
モナコ モナコ
サヴォワ公国 サヴォワ公国
フランス第一帝政 フランス第一帝政
フランスの歴史
フランス国章
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先史時代(フランス語版、英語版)
近代
フランス革命 1789
立憲王政 1791–1792
第一共和政 1792–1804
 • 国民公会 1792–1795
 • 総裁政府 1795–1799
 • 統領政府 1799–1804
第一帝政 1804–1814/1815
 • 百日天下 1815
復古王政 1814–1830
七月革命 1830
七月王政 1830–1848
二月革命 1848
第二共和政 1848–1852
第二帝政 1852–1870
第三共和政 1870–1940
パリ・コミューン 1871
テーマ別
年表

フランス ポータル

フランス第一共和政(フランスだいいちきょうわせい、フランス語: Première République française英語: French First Republic)は、フランス史上初の共和政体である。

8月10日事件によるブルボン王政打倒を経て国民公会によって王政廃止が宣言された1792年9月21日から、ナポレオン1世の下で帝政が宣言された1804年5月18日まで存続した[注釈 1]

時期と政体

第一共和政は、少なくとも3つの時期に分けられ、3つの政体があった。

すなわち、

である。

王政の終焉

1789年7月14日に勃発したフランス革命は、アンシャン・レジーム(旧体制)を揺るがしたのみならず、社会の歪みを暴き、根底からの刷新を要求する強い流れとなった。当初は貴族の改革運動、ブルジョワジーの権利主張であったものが、食糧難から市民の暴動となり、農民の反乱となり、封建的特権の廃止(フランス語版)から市民的自由の保障、さらには土地均等分配、平等主義の要求にまで至り、一方では教会改革への反発は反革命ヴァンデの反乱をも後に引き起こした。

急進化する革命のパリに恐れをなした国王ルイ16世は脱出を図ったが、ヴァレンヌ逃亡事件において逮捕されて連れ戻された。これによって国王の権威は失墜した。憲法制定国民議会は、1791年憲法を成立させてその役割を終えたが、国王は事実上の囚われの身であり、外国の干渉によって解放されることを期待した。立法議会では国王は拒否権を乱発して政局を停滞させ、1792年8月10日テュイルリー宮殿襲撃によって王権は停止され、新たに召集された国民公会によって王政廃止が宣言されて、共和政がそのまま樹立する。

国民公会

詳細は「国民公会」を参照

国民公会は、対仏大同盟諸国との戦争や国内の経済不安(アッシニア暴落)への対応に苦慮し、より強力な統治機構として公安委員会を設置して権限を集中させ、難局に当たろうとした。1793年の祖国の危機は独裁制恐怖政治を導入することで乗り切り、国民総動員令一般最高価格法(フランス語版)など、統制経済で混乱を収拾しようと努めたが、ジロンド派やモンタニャールの左右分派の粛清が相次いで政権自体は安定しなかった。フランスでのモンターニュ独裁は短命に終わった。

なお、国民公会では1793年憲法が制定されたが、施行されなかった。このために国民公会は体系化された憲法を持たないが、公会自らが時々で規定した各種の法令(フリメール14日法(フランス語版)等)によって成り立つという特殊な議会となった。また公安委員会は国民公会内の常設委員会であり、国民公会は名目的には執行機関も兼ねていた。このように国民公会は立法と行政を混濁した一院制議会であった。

総裁政府

詳細は「総裁政府」を参照
1794年までの国旗

1794年テルミドール9日のクーデターの結果、陰謀を決行した派遣議らを中心とするテルミドール派(フランス語版)政権を握った。彼らは反動から右傾化して白色テロを行い、ジャコバン派を弾圧した。ブルジョワジー中心の政治を目指して三分の二法(フランス語版)を決議させて議員らの既得権益を保護しようとした。王党派が反発してヴァンデミエールの反乱が起きたが、これを武力鎮圧して、総裁政府が成立した。

総裁政府の政体を定める1795年憲法は、国民公会とは逆に極端な分権構造であった。立法府は発議権をもつ五百人会と採決権をもつ元老会二院制がとられたが、制限選挙や三分の二法によってブルジョワジーの議会支配の固定化が図られた。

しかしこの政府でも政権は安定せず、統制を失った経済は再び崩壊した。国民からの支持も失っていたので、選挙の度にそれを取り消すためのクーデターを必要としたため、軍隊の政治介入のきっかけとなった。

総裁政府は、第一次対仏大同盟には勝利したが、第二次対仏大同盟の攻勢に遭って窮した。

統領政府

詳細は「統領政府」を参照
ブリュメール18日のクーデター

ナポレオン・ボナパルト統領政府を樹立して自ら第一統領に就任し、事実上の軍事政権を始めた。これは単なる軍事力の支配ではなく、兵士の供給源である農村と都会のブルジョワジーの支持を背景にした支配であり、国民の過半数の支持を得ることに成功した。またボナパルト体制における革命の資産移動の法的認定によってフランス革命は終息したとされる。

統領政府の政体を定める1799年憲法は、総裁政府の極端な分権構造の反省から、強力な中央機構を復活させた。立法府は細分化し、第一統領の下で法案を起草する国務院(参事院)、政府の提出した法案を審議する護民院(法制審議院)、護民院と政府の討議した法案を採決する立法院、法令の合憲性を審査する護憲元老院の四院制がとられた[注釈 2]。選挙制度は一応普通選挙であったものの複雑な間接選挙がとられた。

ナポレオンは戦争に勝利し、内戦を終結させて国内の和解に努め、カトリックを復権させた。アミアンの和約ではフランスを10年ぶりの平和に導いた。これらの一連の成功に対する国民の支持を背景に、以後は波風を立てない元老院の議決、人民投票による信任(プレビシット)という方法で徐々に憲法を修正して権力を固めた(共和暦10年テルミドール16日の組織的元老院決議等)。1802年に彼は終身第一統領となり、1804年には帝政を宣言して皇帝に即位した(共和暦12年憲法)。こうして共和政は終焉を迎え帝政に移行した。

脚注

[脚注の使い方]

注釈

  1. ^ 後世、この日の帝政の宣言において一応の第一共和政の終わりとしているが、ナポレオン1世の帝政は共和国の上に立脚しており、政体が代わっても共和国自体が消滅したというわけではない[要出典]
  2. ^ 国務院を政府(行政府)に付属する諮問機関と考えるならば三院制となる。ナポレオン体制下の国務院は現代とは異なり、立法審議に関しては護民院の役割とさほどの違いはなく、しばしば第一統領とは異なる意見を発表したことでも知られるので、四院とも三院ともどちらとも数えられる[要出典]

参考文献

  • ソブール, アルベール; 小場瀬卓三, 渡辺淳, (訳) (1953), 『フランス革命』, 上・下, 岩波新書 
  • 井上幸治, (著) (1957), 『ナポレオン』, 岩波新書, ISBN 4-00-413028-X 

外部リンク

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主要事件
1788年
  • 屋根瓦の日(1788年6月7日)
  • ヴィジーユ会議(英語版)(1788年7月21日)
1789年
1790年
  • 高等法院の廃止(1790年2月-7月)
  • 貴族階級の廃止(英語版)(1790年6月19日)
  • 聖職者民事基本法(1790年7月12日)
1791年
1792年
1793年
1794年
1795年
1797年
1799年
 
1792年
1793年
  • 第一次対仏大同盟
  • トゥーロン攻囲戦(1793年9月18日-12月8日)
  • ヴァンデの反乱
  • ネールウィンデンの戦い
  • ファマールの戦い(1793年5月23日)
  • サルデーニャ遠征(1793年5月25日)
  • カイザースラウテルンの戦い (en
  • マインツ包囲戦
  • ワッティニーの戦い (en
  • オンショオットの戦い (en
  • ベルガルド包囲戦
  • ペレストルトの戦い (en
  • 第一次ヴィサンブールの戦い (en(1793年10月13日)
  • トルイヤの戦い (en
  • 第二次ヴィサンブールの戦い (en(1793年12月26日-27日)
1794年
  • ヴィレ=アン=コシの戦い (en(1794年4月24日)
  • ブルの戦い (en(1794年4月30日-5月1日)
  • トゥルネーの戦い (en(1794年5月22日)
  • フルーリュスの戦い (en(1794年6月26日)
  • ふくろう党の反乱 (en
  • トゥールコワンの戦い (en(1794年5月18日)
  • アルデンホーフェンの戦い (en(1794年10月2日)
1795年
1796年
  • ロナートの戦い (en(1796年8月3日-4日)
  • カスティリオーネの戦い(1796年8月5日)
  • タイニンゲンの戦い (en
  • ネレスハイムの戦い (en(1796年8月11日)
  • アンベルクの戦い (en(1796年8月24日)
  • ヴュルツブルクの戦い (en(1796年9月3日)
  • ロヴェレートの戦い (en(1796年9月4日)
  • 第一次バッサーノの戦い (en(1796年9月8日)
  • エメンディンゲンの戦い (en(1796年10月19日)
  • シュリーンゲンの戦い (en(1796年10月26日)
  • 第二次バッサーノの戦い (en(1796年11月6日)
  • カッリアーノの戦い (en(1796年11月6日-7日)
  • アルコレの戦い(1796年11月15日-17日)
  • アイルランド遠征(1796年12月)
1797年
1798年
  • エジプト遠征(1798年-1801年)
  • マニラ奇襲(1798年1月)
  • 1798年アイルランド反乱 (en(1798年5月23日-9月23日)
  • 擬似戦争(1798年-1800年)
  • 農民戦争 (en(1798年10月12日-12月5日)
1799年
  • 第二次対仏大同盟(1798年-1802年)
  • アッコ包囲戦(1799年3月20日-5月21日)
  • オストラッハの戦い (en(1799年3月20日-21日)
  • シュトックアッハの戦い (en(1799年3月25日)
  • マニャーノの戦い (en(1799年4月5日)
  • カッサーノの戦い (en(1799年4月27日)
  • 第一次チューリッヒの戦い (en(1799年6月4日-7日)
  • トレッビアの戦い (en(1799年6月19日)
  • ノーヴィの戦い (en(1799年8月15日)
  • 第二次チューリッヒの戦い (en(1799年9月25日-26日)
1800年
1801年
  • リュネヴィルの和約(1801年2月9日)
  • フィレンツェ条約 (en(1801年3月18日)
  • アルヘシラス湾の戦い (en(1801年7月8日)
1802年
 
軍事指揮官
フランスの旗 フランス陸軍
フランスの旗 フランス海軍
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