コネチカット植民地

コネチカット植民地
Connecticut Colony (英語)
セイブルック植民地
ニューヘイブン植民地
1636年 - 1776年 コネチカット州
コネチカットの国旗
(国旗)
コネチカットの位置
植民地の地図。コネチカット、ニューヘヴン、セイブルック
公用語 英語、モヒガン・ピクォート語、キリピ語
宗教 会衆派教会
首都 ハートフォード市(1636年-1776年)
ニューヘヴン(1701年以降、ハートフォードと併合して首都の地位)
元首等
xxxx年 - xxxx年 不明
変遷
設立 1636年3月3日
独立1776年
通貨コネチカット・ポンド
現在アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国

 コネチカット州

コネチカット植民地(コネチカットしょくみんち、英語: Connecticut Colony)は、1636年から1776年まで、北アメリカ現在のアメリカ合衆国コネチカット州の領域に存在したイギリス植民地である。当初は川の植民地 (River Colony)と呼ばれ、ピューリタン貴族の受け入れ地として1636年3月3日に組織化された。初期のオランダとの闘争後、1630年代後半までにイギリスが恒久的な支配権を取った。この地域は後に、ピクォート戦争と呼ばれるイギリス人と先住民族の間の血腥い戦争の舞台となった。これは、チャーターオーク事件と呼ばれるニューイングランド自治領の地元権威に屈服するのを拒否した伝説的出来事と共に、新世界に自治政府を打ち樹てるために重要な役割を演じた。

今日のコネチカット州にあった2つのイギリス植民地、セイブルック植民地が1644年に、ニューヘイブン植民地1662年にコネチカット植民地に併合された。

歴史

人口推移
人口±%
16401,472—    
16504,139+181.2%
16607,980+92.8%
167012,603+57.9%
168017,246+36.8%
169021,645+25.5%
170025,970+20.0%
171039,450+51.9%
172058,830+49.1%
173075,530+28.4%
174089,580+18.6%
1750111,280+24.2%
1760142,470+28.0%
1770183,881+29.1%
1774197,842+7.6%
1780206,701+4.5%
典拠:1640年–1760年[1]、1774年[2]。1770年–1780年 (1638年–1664年) は、ニューヘイブン植民地を含む[3]

この地域に入った最初のヨーロッパ人は1614年ロングアイランド湾を通り、コネチカット川を遡って今日のハートフォードまで行ったオランダ人探検家アドリアン・ブロックの遠征隊だった。このときその地域に住んでいたピクォート族に遭遇した。1620年代までに、ニューアムステルダムからのオランダ人交易業者がコネチカット川沿いに毛皮交易基地を設立し、その中でも著名な所は現在のハートフォード内、パーク川がコネチカット川に合流する地点に作られた「良い希望の家」(英語:House of Good Hope、オランダ語:Huys de Goede Hoop)だった。

1630年までに、北アメリカでオランダの強力な競争相手だったイギリスがニューイングランドの東海岸にいくつかの開拓地を創った。1620年プリマス植民地1623年ニューハンプシャー植民地および1630年マサチューセッツ湾植民地などだった。イングランド王ジェームズ1世はニューイングランド評議会の議長第2代ウォリック伯爵ロバート・リッチに、ナラガンセット湾から西に太平洋岸までの地域への入植権を認可した。1631年ウォリック伯はこの認可を北アメリカにおける逃避場所になりうる所としてイングランドにいる15人のピューリタン領主に譲渡した。この特許を受けた者達の中に、初代セー・アンド・シール子爵ウィリアム・ファインズやブルック卿、ジョージ・フェンウィック大佐等がいた。1635年、特許受権者達はマサチューセッツ湾植民地総督の息子、ジョン・ウィンスロップ・ジュニアを「川の植民地知事」として任命した。

ウィンスロップは1635年10月にボストンに到着し、オランダがコネチカット川河口の「パスベショーケ」(アルゴンキン語で河口という意味)と呼ばれる場所の占領を計画していることを知った。このオランダに対抗するために、ウィンスロップはエドワード・ギボンズ中尉とサイモン・ウィラード軍曹の指揮で20人の大工と他の作業者を小さな船に乗せてコネチカット川河口に派遣した。この遠征隊は11月24日に河口近くの西岸、今日のオールドセイブルックに上陸し、オランダの紋章を刻みつけてある木を特定した。彼等はその紋章を剥ぎ、楯を描きニッと笑っている顔を描き入れた。砲台を築いて大砲をすえつけ、小さな砦を造った。ウィンスロップはこの地点をファインズ(セイ子爵)とブルック卿に因んで「ポイント・セイブルック」と改名した。数日後に戻ってきたオランダ船は、大砲とイギリス船を目にすると撤退した。

1630年代にはイギリス人開拓者がニューイングランドの他の植民地からコネチカット川渓谷に移ってきた。1633年、ウィリアム・ホームズが1群の開拓者を率いてプリマス植民地からコネチカット川渓谷に入り、オランダの交易基地から北数マイルにウィンザーを設立した。1634年、ジョン・オールダムと一握りのマサチューセッツの家族がオランダの交易基地から南数マイル、ウェザーズフィールドの地域に仮寓を建てると、2年の間に30家族がオールダムの追随者達に加わろうとマサチューセッツのウォータータウンからウェザーズフィールドに移住、1636年にこの地域のイギリス人の人口が脹れ上がった。

牧師のトマス・フッカーはリチャード・リスリーを含む100人の開拓者と130頭の牛を導き、マサチューセッツ湾植民地のニュータウン(今日のケンブリッジ)からコネチカット川沿いの両岸に入ると、パーク川を挟んで古いオランダの砦の対岸に設立したのがハートフォードである。1637年ピクォート戦争に備えてコネチカット川沿いの3つの町、ウィンザー、ハートフォードおよびウェザーズフィールドが共通の政府を樹立し、開拓者達は新しい教会中心の社会を樹立して自分達の規則と規制に従って暮らしたいと考えた。歴史家のヘンリー・S・コーンに拠れば[4]、「彼等は民衆によって選ばれていない執政官の権力に不満だった。しかし、彼等はそれぞれの所有地を拡げたいとも思った。」

1638年夏、3つの町ではコネチカット基本条例を書き上げ、政府の原則、権力および構造を決めた。これらは1639年1月14日にコネチカット委員会に採択され、トマス・ウェルズによって公式記録に書き写された。コネチカットは1662年に王室勅許を受け、公式の王室領植民地になった。

ニューヘイブン植民地は異なる政体だったが、1662年の勅許のもとにコネチカットに併合された(前者の住民は1565年1月5日に初めてコネチカットの支配を認識した可能性がある)。ニューヘイブンはイングランド王チャールズ1世を告発し1649年に死に至らせた判事のうち3人を匿って(かくまって)いたので、イングランドから大きな圧力を受けたためにコネチカットと合併した。この勅許が後に差し押さえられることになったとき、ある市民がオークの木の幹にそれを隠した。

コネチカット西部保留地

ニューヘイブン植民地は1641年レナペ族との協定により、デラウェア川の東西両岸の全域を所有すると主張することになった。この植民地は現在のフィラデルフィアでまず何らかの形で開拓が始まったものの、地域にすでに住んでいたニュースウェーデンやニューアムステルダムの住人がその開拓地を焼き討ちにし、その土地はマサチューセッツ湾植民地によってイギリス側ではないと否認された。ニューヘイブン植民地開拓はデラウェア川沿いの入植から撤退したものの、そのレナペ族との協定こそ、デラウェアの東西に大西洋から太平洋まで全ての土地、いわゆる「海から海まで」というコネチカットの領有権主張の根拠になった。

経済

17世紀に自給自足であった農業は、やがて作付を増やし品種も加え、遠隔地の市場へ出荷するように移っていく。わけてもカリブ海地域のイギリス植民地を消費地と見定めた。工業の分野はアメリカ独立戦争が影響してイギリス本国から製品の輸送が途絶えると、それが刺激となって商機を見込んだ起業家が現れ、工作機械をあやつる人々の技能を連携させて工業製品の生産過程が開発される。18世紀後半になると良質な農地が足りなくなり、経営上は収支の問題がくりかえすようになるなか、穀物から動物製品(畜産)へシフトしていく[5]。工業製品は製造量が増えるほど輸出市場で値下がりの圧力がかかるなど、伸びなやんだ。植民地政府は経済を強化し、イギリスとの貿易格差を改善しようと麻と炭酸カリウム[注釈 1]と材木を指定した[6]

当地では建築が発達し、住宅にさまざまな形態が見られるようになる。イギリスの伝統的な家屋や建築様式を引く例が圧倒的に多かった[7]

指導者達

著名なピューリタンの牧師トマス・フッカー(英語版)とマサチューセッツ湾植民地知事ジョン・ヘインズが、1636年にハートフォードまで100人の人々を引率し、これがコネチカット植民地の創設と考えられることが多い。フッカーがその信徒達に向かい、1638年5月31日に政府の原則について説教を行うと、感化された人々はその年の後半にコネチカット基本条例を発した。同条例の起草者はロジャー・ルドロー(ウィンザー)の可能性があり、この人物は1630年代のコネチカットで訓練を積んだ唯一人の弁護士であった。これを事務官トマス・ウェルズ(英語版)が公式記録に書き写した。

ニューヘイブン植民地の創設者は、ジョン・ダベンポート牧師(英語版)と商人のセオフィラス・イートン(英語版)であると考えられている。この植民地は上記のように1660年代にコネチカット植民地に吸収された。

植民地初期の知事には任期の連投が認められず、そのため20年にわたり、ジョン・ヘインズ(ハートフォード出身)とエドワード・ホプキンスが交互に知事を務めた。1640年代と1650年代にはやはりハートフォード出身のジョージ・ワイリーズ、トマス・ウェルズおよびジョン・ウェブスターがそれぞれ短期間ずつ知事の座に座った。

やがてコネチカット川近辺に点在した開拓地は、単一の植民地にまとまる。このとき、マサチューセッツ湾植民地創設者の息子ジョン・ウィンスロップ・ジュニア(ニューロンドン出身)が重要な役割を果たした。2代目ウィンスロップは1659年から1765年までコネチカット知事を務めた。そのあいだの1662年に勅許取得を提唱し、この勅許でニューヘイブン植民地をコネチカットに併合したのもこの人物で、3代目ウィンスロップになる息子のフィッツ・ジョン(英語版)も1698年から10年間、知事職にあった。

ロジャー・ルドロー(英語版)はオックスフォードで弁護士教育を受け、マサチューセッツ湾植民地の副知事であったが、この地域を開拓する権利を高等裁判所に請願し、またマーチ委員会を宰領し地権に関する論争を収めた。フッカー、ウィンスロップなどの力添えにより、1650年の「コネチカット基本法」の起草者であったとされ、コネチカットの初代副知事になった。

初期の開拓地ウィンザーとセイブルックおよびノリッジの創設者として名前が残るジョン・メイソン(英語版)は、ウィンスロップの右腕であり副知事であった。メイソンは植民地の開拓期に軍部を率いており、ピコート戦争(英語版)に従軍した。治安判事でもあった。

旧ニューヘイブン植民地のウィリアム・リート(英語版)は同地とコネチカットの植民地併合を目撃し、2代目ウィンスロップが1675年の死後は後任の知事も務めた。唯一、両植民地の知事を務めた人物である。

ミルフォード出身のロバート・トリート(英語版)は、任地コネチカットがエドマンド・アンドロス卿によってニューイングランド自治領(英語版)に併合される前から知事職にあり、その後も再選した。その父、リチャード・トリートはコネチカット植民地の初めに、特許をうけた者の一人だった。

この植民地では18世紀に一連の強力な知事が現れて毎年再選され、前任者の死没をもって交代する。1期ごとの交代制の伝統は崩れた。フィッツ・ジョン・ウィンスロップ(3代目)の死去を受け、知事の地元ニューロンドンからガードン・ソルトンストール牧師が知事に選ばれた。聖職者でこの植民地の知事に選ばれた唯一の牧師であり、「ピューリタンの牧師は公職に就けない」という世に広まった誤解を覆した。その没後は、ジョセフ・タルコット副知事(ハートフォード出身)が知事になり、次代の知事は同郷のジョナサン・ロー副知事、その後継はやはり副知事を務めたウィンザーのロジャー・ウォルコット(英語版)である(在任1751年-1754年)。この第19代コネチカット知事はアメリカ独立戦争下にコネチカット義勇軍の少将でジョージ・ワシントンに仕え、1754年のスペイン船事件で果たした役割の故に落選した。息子はアメリカ独立宣言の署名者オリバー・ウォルコットである。

ウォルコットの後継者トマス・フィッチはノーウォーク出身で、七年戦争の間、植民地を指導した。1766年の印紙法拒否で強く出なかったために落選した。当選したウィリアム・ピトキン(ハートフォード)は自由の息子達の支持者でもあり、またウォルコット元知事の従兄弟でもあった。1769年に没したピトキンの職責は、商人出身のジョナサン・トランブル副知事(レバノン出身)が継いだ。トランブルもまた自由の息子達の支持者であり、独立戦争の間も知事に選ばれ続け、1784年に引退した。この年はアメリカ合衆国のイギリスからの独立を認めたパリ条約調印から1年後だった。

宗教

会衆派教会の信徒は信仰がカルヴァン主義寄りであるからイギリス出身のピューリタンに近いとはいえ、会衆派の教会は国教会とは別の存在だと主張した。大移動(英語版)の時期に、ニューイングランド地方へ移動してきた人々である(最盛期は1620年 - 1640年)。

コネチカット川に沿ってわけいった入植者はプリマス植民地とも通じていた。マサチューセッツ湾植民地と同様、コネチカットは植民地における国教会としての会衆派教会を作ったピューリタンによって設立された[訳語疑問点]

税金が地元の牧師達を支え、日曜の礼拝に出席できなかった植民地人は罰金を取られた[要出典]。1708年まで、会衆派教会はコネチカットで唯一の合法宗教だった。しかし、その年に「分別ある異議」を認め、著名なところではイングランド国教会バプテストのような特定の非国教徒については、彼等の教会に献金するという条件で、国教を支えるための税金を払わなくともよいものとした。また1708年には、セイブルック綱領を採択し、地元の信徒団から教会の主権を奪い、運営は植民地全体に拡がる牧師による協議会の手に委ねた。

1701年、植民地議会は新しく会衆派の牧師を育てるという使命を持つ大学の設立を承認した。キリングワース、セイブルックおよびウェザーズフィールドと移った後で、1716年に恒久的な場所としてニューヘイブンに設立された。1718年、ボストンで生まれた富裕なイギリス人実業家イライヒュー・イェールからのかなりの額の寄付の後で、大学の名前はイェール大学と改められた。1720年代初期、大学の牧師ティモシー・カトラーが教官の1人や隣接する教区の牧師2人と共に、イングランド国教会に改宗したと告発され、イェール大学で宗教論争が起こった。1722年、大学の理事会は大学の正当性を強制すると決断し、カトラー牧師や問題のある教官を解任し、今後は全ての教区牧師や教官がセイブルック綱領への同意を宣言しなければならないという決議案を採択した。 18世紀中頃、政府は財産と教会への帰属を条件として選挙権に制限をかけた[8]。やがて訪れた大覚醒は植民地中に衝撃を与え、会衆派教会を分裂させた。覚醒を奉じる者は「ニューライツ」と呼ばれ、これに反対する者は「オールドライツ」と呼ばれるようになった。前者はそれまでの牧師によるしばしば情熱の無い礼拝に不満を抱き、多くの町で別の宗教団体あるいは教会を設立する請願をおこなった。後者はこれらの試みに反対し、ニューライツは分別も無いし(その礼拝では感情的な性格があるため)、異議を唱えてもいない(彼等は会衆派教会であり続けた)と主張した。覚醒を抑圧しようとしたオールドライツは植民地議会を説得して巡回法を成立させ、移動する牧師が町の牧師からの招待無くしてコネチカットの町で説教を行うことを禁じた。多くの歴史家達はこの法が植民地における政治問題に火を付けたと考えている。

アメリカ独立戦争の間、植民地イングランド国教会信徒の多くはフェアフィールド郡に集中しており、ロイヤリストであり続けた。同じ信徒でもモーゼス・ダンバーはブリストルに住んでおり、ロイヤリストであったために反逆者として有罪宣告され、絞首刑になった。

会衆派教会は革命期間のコネチカットでも国教会であり続けたが、「分別ある異議」を持つ教会として、時と共に支配力は弱まった。1818年のコネチカット憲法の採択によって、会衆派教会は国教会ではなくなり、遂にコネチカットには政教分離が訪れた。

脚注

[脚注の使い方]

注釈

  1. ^ 「ポタッシュ」とは水溶性のカリウムを含む塩類で、採掘したままもしくは加工品を指す。名称の由来は産業革命以前、カリウムの元となるアルカリを得る手法にさかのぼり、鍋に入れた木や植物の灰(ポットのアッシュ)。

出典

  1. ^ Purvis, Thomas L. (1999). Balkin, Richard. ed. Colonial America to 1763. New York: Facts on File. pp. 128–129. https://archive.org/details/colonialamericat00purv_0/page/128 . ISBN 978-0816025275
  2. ^ Purvis, Thomas L. (1995). Balkin, Richard. ed. Revolutionary America 1763 to 1800. New York: Facts on File. p. 147. https://archive.org/details/isbn_9780816025282/page/147 
  3. ^ (pdf) Colonial and Pre-Federal Statistics. United States Census Bureau. p. 1168. https://www2.census.gov/prod2/statcomp/documents/CT1970p2-13.pdf . ISBN 978-0816025282.
  4. ^ Cohn, Henry S.. Connecticut Colonial History 1636-1776. Connecticut State Library 
  5. ^ Daniels (1980)
  6. ^ Nutting (2000)
  7. ^ Smith (2007)
  8. ^ Barack & Lefter (1958)

参考文献

本文の典拠に限定。

洋書(執筆者・編者のアルファベット順)
  • Barck, Oscar T.; Lefler, Hugh T. (1958). Colonial America. New York: Macmillan. pp. 258–259 
  • Daniels, Bruce C. (1980). “Economic development in colonial and revolutionary Connecticut: an overview”. en:William and Mary Quarterly 37 (3): 429–450. doi:10.2307/1923811. JSTOR 1923811. 
  • Green, Jack P.; Pole, J. R. (1984). Colonial British America: Essays in the New History of the Early Modern Era. Baltimore, MD: The Johns Hopkins University Press. ISBN 9780801830556 
  • Nutting, P. Bradley (2000). “Colonial Connecticut's search for a staple: a mercantile paradox”. en:New England Journal of History 57 (1): 58–69. 
  • Smith, Ann Y. (2007). “A New Look at the Early Domestic Architecture of Connecticut”. Connecticut History Review 46 (1): 16–44. JSTOR 44369757. 

関連項目

外部リンク

ウィキメディア・コモンズには、コネチカット植民地に関連するカテゴリがあります。
  • Colonial Connecticut Records: The Public Records of the Colony of Connecticut, 1636-1776
  • Colonial Connecticut Town Nomenclature
  • Connecticut Constitutionalism, 1639-1789
  • Timeline of Colonial Connecticut History

* 現在は英連邦王国  ·   現在はイギリス連邦の一員

ヨーロッパ

12世紀
1337-1453  フランス

18世紀
1708–1757  メノルカ島
1713-  ジブラルタル
1763–1782  メノルカ島
1798–1802  メノルカ島

19世紀
1800–1964  マルタ直轄植民地
1801-1921  アイルランド
1807–1890  ヘルゴラント島
1809–1864  イオニア諸島合衆国

20世紀
1921-1937  アイルランド自由国

北アメリカ

17世紀
1607–1776  バージニア
1610–1907  ニューファンドランド
1619-  バミューダ諸島
1620–1691  プリマス
1629–1691  マサチューセッツ湾植民地
1632–1776  メリーランド
1636–1776  コネチカット
1636–1776  ロードアイランド
1637–1662  ニューヘイブン植民地
1663–1712  カロライナ
1664–1776  ニューヨーク
1665–1674 及び 1702-1776  ニュージャージー
1670–1870  ルパート・ランド
1674–1702  東ジャージー
1674–1702  西ジャージー
1680–1776  ニューハンプシャー
1681–1776  ペンシルベニア
1686–1689  ニューイングランド
1691–1776  マサチューセッツ

18世紀
1701–1776  デラウェア
1712–1776  ノースカロライナ
1712–1776  サウスカロライナ
1713–1867  ノバスコシア
1733–1776  ジョージア
1763–1873  プリンスエドワード諸島
1763–1791  ケベック植民地
1763–1783  東フロリダ
1763–1783  西フロリダ
1784–1867  ニューブランズウィック
1791–1841  ローワー・カナダ
1791–1841  アッパー・カナダ

19世紀
1818–1846  コロンビア地区 / オレゴン・カントリー1
1841–1867  カナダ植民地
1849–1866  バンクーバー諸島
1853–1863  クイーンシャーロット諸島植民地
1858–1866  ブリティッシュ・コロンビア領
1859–1870  北西領
1862–1863  スティキン領
1866–1871  バンクーバー島・ブリティッシュコロンビア連合植民地
1867–1931  *カナダ (ドミニオン)2

20世紀
1907–1949  ニューファンドランド3

^1アメリカ合衆国と共同占有。
^21931年、ウェストミンスター憲章によりカナダと他のイギリス自治領は自らの政府を持つ。(イギリス連邦も参照)
^31934年に自治政府を自ら放棄し、1949年にカナダに編入されるまで事実上のイギリス自治領。

ラテンアメリカとカリブ海

17世紀
1605–1979  *セントルシア
1623–1883  セントキッツ・ネイビス
1624–1966  ·バルバドス
1625–1650  セント・クロイ島
1627–1979  *セントビンセント・グレナディーン
1628–1883  セントキッツ・ネイビス
1629–1641  セント・アンドリュー・プロビデンス諸島4
1632-  モントセラト
1632–1860  アンティグア(アンティグア・バーブーダ)
1643–1860  バイア諸島
1650-  アンギラ
1651–1667  ウィロフビーランド(スリナム)
1655–1850  モスキート湾
1655–1962  *ジャマイカ植民地
1666-  イギリス領ヴァージン諸島
1670-  ケイマン諸島
1670–1973  *バハマ
1670–1688  セント・アンドリュー・プロビデンス諸島4
1671–1816  リーワード諸島

18世紀
1762–1974  *グレナダ
1763–1978  ドミニカ
1799-  タークス・カイコス諸島

19世紀
1831–1966  ギアナ(ガイアナ)
1833–1960  ウィンドワード諸島
1833–1960  リーワード諸島
1860–1981  *アンティグア・バーブーダ
1871–1964  ホンジュラス(ベリーズ)
1882–1983  *セントキッツ・ネイビス
1889–1962  トリニダード・トバゴ

20世紀
1958–1962  西インド連邦

^4現在のコロンビアサン・アンドレス・イ・プロビデンシア県

アフリカ

18世紀
1792–1961  シエラレオネ
1795–1803  ケープ植民地

19世紀
1806–1910  ケープ植民地
1816–1965  ガンビア
1856–1910  ナタール植民地
1868–1966  バストランド(レソト)
1874–1957  ゴールド・コースト
1882–1922  エジプト
1884–1966  ベチュアナランド(ボツワナ)
1884–1960  ソマリランド
1887–1897  ズールーランド
1888–1894  マタベレランド
1890–1980  南ローデシア(ジンバブエ)
1890–1962  ウガンダ
1890–1963  ザンジバル(タンザニア)
1891–1964  ニヤサランド(マラウイ)
1891–1907  中央アフリカ
1893–1968  スワジランド
1895–1920  東アフリカ
1899–1956  スーダン

20世紀
1900–1914  北ナイジェリア
1900–1914  南ナイジェリア
1900–1910  オレンジ川植民地
1900–1910  トランスヴァール植民地
1906–1954  ナイジェリア植民地
1910–1931  南アフリカ
1911–1964  北ローデシア(ザンビア)
1914–1954  ナイジェリア
1915–1931  南西アフリカ(ナミビア)
1919–1960  カメルーンズ(カメルーン) 5
1920–1963  ケニア植民地
1922–1961  タンガニーカ(タンザニア) 5
1942-1951  リビア
1949-1951  キレナイカ首長国
1954–1960  ナイジェリア連邦

^5国際連盟委任統治

アジア

17世紀
1685-1824  ブンクル州
スマトラ島

18世紀
1702–1705  コンダオ諸島
1757–1947  西ベンガル(インド)とバングラデシュ
1762–1764  フィリピン
1795–1948  セイロン(スリランカ)
1796–1965  モルディブ

19世紀
1819–1826  マレー半島・シンガポール
1826–1946  海峡植民地
1839–1967  アデン植民地
1841–1997  香港
1841–1941  サラワク王国(マレーシア)
1854-1963  上海租界
1848-1946  ラブアン直轄植民地
1858–1947  イギリス領インド(インド、パキスタン、バングラデシュ、ビルマ)
1860-1943  天津租界
1861-1927  漢口租界
1861-1927  鎮江租界
1861-1927  九江租界
1862-1943  沙面租界
1862-1930  厦門租界
1863-1943  上海共同租界
1882–1963  北ボルネオ(マレーシア)
1885–1946  非連合マレー諸国
1888–1984  ブルネイ・スルターン国
1888–1946  スールー王国
1891–1971  マスカット・オマーン
1892–1971  トルシアル諸国保護領
1895–1946  連合マレー諸国
1898–1930  威海衛租借地
1898-1997  新界租借地
1878–1960  キプロス

20世紀
1902-1943  鼓浪嶼共同租界
1918–1961  クウェート
1920–1932  イラク5
1921–1946  トランスヨルダン5
1923–1948  パレスチナ5
1941-1946  イラン
1945–1946  南ベトナム
1946–1948  マラヤ連合
1946–1952  連合国として日本占領
1946–1963  サラワク(マレーシア)
1948–1957  マラヤ連邦(マレーシア)
since 1960  アクロティリおよびデケリア(かつてのキプロスの一部)
since 1965  イギリス領インド洋地域

^5国際連盟委任統治

オセアニア

18世紀
1788–1901  ニューサウスウェールズ

19世紀
1803–1901  ヴァン・ディーメンズ・ランド/タスマニア
1807–1863  オークランド諸島6
1824–1980  ニューヘブリディーズ諸島(バヌアツ)
1824–1901  クイーンズランド
1829–1901  スワン川植民地/西オーストラリア
1836–1901  南オーストラリア
since 1838  ピトケアン諸島
1841–1907  ニュージーランド植民地
1851–1901  ビクトリア
1874–1970  フィジー7
1877–1976  イギリス領西太平洋
1884–1949  パプア領
1888–1965  クック諸島6
1889–1948  トケラウ6
1892–1979  ギルバート・エリス諸島8
1893–1978  イギリス領ソロモン諸島9

20世紀
1900–1970  トンガ
1900–1974  ニウエ6
1901–1942  *コモンウェルス・オブ・オーストラリア
1907–1953  *ニュージーランド
1919–1942  ナウル
1945–1968  ナウル
1919–1949  ニューギニア領
1949–1975  パプアニューギニア領10

^6現在はニュージーランド王冠の一部
^7延期メンバー
^8現在はキリバスツバル
^9現在はソロモン諸島
^10現在はパプアニューギニアの一部

南極大陸と南大西洋

17世紀
1659-  セントヘレナ

19世紀
1815-  アセンション島11
1816-  トリスタンダクーニャ11
1833-  フォークランド諸島12

20世紀
1908-  イギリス領南極地域1314
1908-  サウスジョージア・サウスサンドウィッチ諸島1213

^111922年(アセンション島)よりセントヘレナの、1938年より(トリスタンダクーニャ)の属領
^12フォークランド戦争中の1982年4月から6月までアルゼンチンの占領下
^131908年より主張されている
^14南極条約により領土主権や請求権は凍結されている

典拠管理データベース ウィキデータを編集
全般
  • VIAF
国立図書館
  • ドイツ
  • イスラエル
  • アメリカ
  • オーストラリア
人物
  • Trove(オーストラリア)
    • 1

座標: 北緯41度43分05秒 西経72度45分05秒 / 北緯41.71803度 西経72.75146度 / 41.71803; -72.75146