島津忠隣
「島津忠親」とは別人です。 |
凡例 島津忠隣 | |
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時代 | 安土桃山時代 |
生誕 | 永禄12年(1569年) |
死没 | 天正15年4月17日(1587年5月24日) |
別名 | 三郎次郎(通称) |
戒名 | 桂山昌久大禅定門 |
主君 | 島津義久 |
氏族 | 日置島津家 |
父母 | 父:島津義虎、母:御平(島津義久長女) 養父:島津歳久 |
兄弟 | 志岐親弘室、忠辰、忠隣、忠清、忠栄、 忠富、忠豊、小川有季室? |
妻 | 島津歳久娘・湯之尾 |
子 | 常久 |
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島津 忠隣(しまづ ただちか)は、安土桃山時代の武将。島津家の家臣。日置島津家2代当主。
生涯
島津義虎と御平(島津義久の長女)の次男。天正12年(1584年)、男子のいなかった大叔父・島津歳久(義久の弟)の養嗣子となり、歳久の長女を室とした。
天正14年(1586年)、叛乱した筑紫広門征伐の副将に任じられる[1]。しかし若年であり、また初陣であったことから[2]島津義久より遠矢信濃守良時・木脇伊賀入道祐定を付けられた上で7月6日、鷹取城攻めを行った[1]。同27日の岩屋城の戦いにも参加、取添口より攻撃し軍功を上げた[1]。
天正15年(1587年)、豊臣秀吉の九州平定において島津氏は一方的な防戦となり、重要な戦略拠点である日向国の根白坂(現・宮崎県木城町)を宮部継潤に占拠されてしまう[1]。忠隣は、夜襲を掛け根白坂を奪回することを提案するが、無謀な攻撃であり島津家久(義久や歳久の弟、妻方では叔父、母方では大叔父にあたる)に反対されたという。しかし、その制止を振り切り根白坂を攻撃するが、それを予測していた宮部軍の反撃により忠隣率いる島津側のほぼ全員が討死し完敗した(根白坂の戦い)。
忠隣も鉄砲傷を被り、その出血はなはだしく家臣・鎌田囚獄左衛門政金に水を所望すると、囚獄左衛門が傍らにあった青梅を引き千切り差し出した[1]。忠隣はそれを末期の水代わりと一口食べ絶命した[1]。享年19。家臣らは遺体を盾板に載せて退却した[1]。
なお、その年の1月に生まれたばかりの長男・常久は歳久によって養育され、日置島津家として系譜は続いた。
脚注・出典
日置島津家第2代当主 | |
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宗家 | |
総州家 | |
奥州家 | 氏久1363-1387 | 元久1387-1411 | 久豊1411-1425 | 忠国1425-1470 | 立久1470-1474 | 忠昌1474-1508 | 忠治1508-1515 | 忠隆1515-1519 | 勝久1519-1526 | 貴久1526-1566 | 義久1566-1587 | 義弘1587-1602 | 家久1602-1638 | 光久1638-1687 | 綱貴1687-1704 | 吉貴1704-1721 | 継豊1721-1746 | 宗信1746-1749 | 重年1749-1755 | 重豪1755-1787 | 斉宣1787-1809 | 斉興1809-1851 | 斉彬1851-1858 | 忠義1858-1897 | 忠重1897-1968 | 忠秀1968-1996 | 修久1996-現在 |
分家・支流 | |
越前家 | |
播磨家 | |
伊作家 | |
薩州家 | |
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豊州家 | |
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佐土原家 | |
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佐多氏→ 知覧家 |