松平忠頼

曖昧さ回避 松平忠順」あるいは「松平忠馮」とは別人です。
 
凡例
松平忠頼
時代 安土桃山時代 - 江戸時代初期
生誕 天正10年(1582年[1]
死没 慶長14年9月29日(1609年10月26日[2][1]
神号 毛毛伊曽志比古遅命[注釈 1]
戒名 円通院観翁浄喜[1]
墓所 東京都府中市紅葉丘の誓願寺[4][注釈 2]
官位 従五位左馬允[2][1]
幕府 江戸幕府
主君 徳川家康秀忠
武蔵松山藩主(→美濃金山藩主)→遠江浜松藩
氏族 桜井松平家
父母 父:松平忠吉、母:多劫姫[2][5]
兄弟 信吉忠頼
異父兄弟:家広[5]栄姫黒田長政継室)保科正貞清元院(安部信盛室)貞松院(小出吉英正室)高運院(加藤明成室)北条氏重
正室:織田長益の娘[6]
忠重[7]、忠直、忠勝、忠久、忠好、忠利
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松平 忠頼(まつだいら ただより)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将大名桜井松平家7代当主。関ヶ原の戦い後に遠江国浜松藩[8]となったが、親族の宴席に招かれた際に争論に巻き込まれて横死。5万石の城地は没収された。

生涯

出自と家督継承

天正10年(1582年[1]、松平忠吉と多劫姫(徳川家康異父妹)の間の次男として誕生した[8][1]。多劫姫はもともと忠吉の兄である松平忠正に嫁いだ女性で、忠頼にとっては異父兄(従兄でもある)となる家広がいる。忠正の死去時、家広が幼少であったために忠吉が家督を継いだ経緯があるが、忠頼が生まれた天正10年(1582年)に忠吉も没し、桜井松平家の家督は家広が継ぐこととなった。徳川家康が関東に入国すると、家広は武蔵松山1万石の大名となった。

寛政重修諸家譜』(以後『寛政譜』)によれば、病となった家広に代わって襲封したとされるが、時期については記されていない[1](慶長5年(1600年)に跡を継いだとする書籍もある[8])。後述の通り、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは忠頼が活動している。

家広は慶長6年(1601年)6月に死去したと記録されている。これについて実は自害であり「無嗣のため家が絶えた」とする説があることが『寛政譜』に参考情報として収録されており[1]、その場合家広から忠頼に家督は譲られておらず、家広の遺領が忠頼に与えられることで家の継承が図られたのであろうとも記されている[1]。こうした事情から、関ケ原の合戦前後の家督や知行高に関する記事には錯綜が見られる。

関ヶ原の合戦以後

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの際には会津への出陣に従い[1]、西上中に家康の命で三河国岡崎城田中吉政の居城)の守備にあたった[1]。戦後は尾張国犬山城の城番を務め、また家康の命で美濃金山城の在番にもあたった[1]。この際、金山領の1万5000石を加増される[1](計2万5000石[2]金山藩の立藩と捉える見方もある[注釈 3])。

慶長6年(1601年)2月、加増を受けて5万石の大名として遠江浜松藩に移封された[8][1]。この加増については「家広の遺領を継いだ」[注釈 4]とする説もある[10]

浜松の領主としての治績は特に伝わっていない[10]。慶長12年(1607年)、徳川家康の隠居城であった駿府城が火災にあった後の普請に参加している[2][1]

横死

『寛政重修諸家譜』によれば慶長14年(1609年)9月29日、親族の水野忠胤[注釈 5]の江戸屋敷に招かれた際[11][1]、茶室において同席していた久米左平次と服部半八郎が口論から刃傷沙汰となり、これを仲裁しようとした忠頼は久米によって殺害された[注釈 6]。享年28[1]。ただし『徳川実紀』では9月1日に刃傷事件が発生し[12]、負傷した忠頼が9月29日に死亡したとある[13][注釈 7]

『寛政譜』によれば、久米と服部は「武道の事」から争論になったとするが[11]、『徳川実紀』によれば争論の原因は囲碁で、忠頼が服部に助言を行ったのがきっかけという[12]。同書によれば、茶宴のあとの座興として久米と服部は囲碁を始めたが、忠頼は服部と懇意であったため[注釈 8]服部を贔屓してしきりに助言を行った[12]。対局後に久米は激怒して服部を罵倒、服部は脇差を抜いて久米を傷つけた[12]。居合わせた人々によって一旦は引き離された両者であるが、応戦できぬまま手傷を負わされた久米は、「これは忍ぶべきにあらず」と再度立ち上がり服部を切りつけようとした[12]。居合わせた人々は両者に飛びついて押さえ止めようとしたが、このとき久米は忠頼を突いた[12]。刺された忠頼は脇差を抜いて久米を斬り、さらに駆けつけた人々によって久米は討たれたという[12]

宴席の主催者であった水野忠胤は10月16日に切腹を命じられ、その家は改易された[11][14]。争論の当事者であった服部は自らの知行地のある相模国に逃亡したが[12]捕らえられて切腹させられた[14]

なお、『寛永諸家系図伝』ではこの事件にまったく触れられず、9月29日に没したことのみが記されている[15]

その後

忠頼が横死した際、継嗣の松平忠重は幼少(7歳)であったために5万石の城地は没収され[13]、妻子は江戸に召されることとなった[16]。改易にともない家臣団は一部を除いて解体したと見られ[17]、浜松地方は騒然とした状況になった[18]。『徳川実紀』には「浜松の旧領狼藉やむときなし、よって水野備後守分長・水野対馬守重仲をして浜松城につかはされ、かの地を監察せしめらる」とある[18](12月11日条[19])。なお、水野分長・水野重仲(水野重央)は兄弟にあたる。重仲は12月22日付でそのまま正式に浜松藩主となった[20]

一旦は改易された桜井松平家であるが、忠重は翌慶長14年(1610年)に新たに8000石を武蔵国深谷において拝領しており[2][16]、元和8年(1622年)に大名に復帰、最終的に遠江国掛川藩4万石の藩主になっている[7][8][16]

系譜

特記事項のない限り、『寛政重修諸家譜』による[16]

  • 父:松平忠吉
  • 母:多劫姫久松俊勝の娘、徳川家康の異父妹)
  • 正室:織田長益
    • 長男:松平忠重 - 家を継ぐ
    • 二男:松平忠直 - 別家、2000石の旗本となる[21]
    • 三男:松平忠勝 - 長七郎。松平定勝(久松松平家。多劫姫の弟)に養われる[注釈 9]。のち紀州藩士。
    • 四男:松平忠久 - 徳川忠長に附属され2000石。子孫は旗本となる[23]
    • 五男:松平忠好 - 左京進。
    • 六男:松平忠利 - 旗本となり、御小姓組番頭を務めるが無嗣断絶。

補足

  • 多劫姫はもともと忠吉の兄である松平忠正に嫁ぎ(忠頼の異父兄として松平家広がいる)、忠正の死後に忠吉に嫁いだ。父母を同じくする兄に松平信吉(藤井松平家を継ぐ)がいる。多劫姫は忠吉死後、保科正直正室となった。
  • 『寛政譜』では、子はすべて正室の織田氏が母と記されている[16]

脚注

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注釈

  1. ^ ももいそしひこぢのみこと。桜井神社(兵庫県尼崎市)の祭神として追贈された神号[3]
  2. ^ 葬儀時は浅草に所在していた[4]
  3. ^ 『寛政譜』では浜松移封時に「松山を改めて浜松城を賜ひ」とある[1]。『浜松市史』の「歴代浜松城主一覧表」では、忠頼の前封地を「美濃金山」とする[9]
  4. ^ 移封が慶長6年(1601年)2月、家広の死が慶長6年(1601年)6月、という記録が正しければ成り立たない。
  5. ^ 忠頼の母方祖母・於大の方は、忠胤の父・水野忠重の姉にあたるため、忠胤は忠頼の従叔父(いとこおじ)という関係になる。また、忠頼の正室(織田長益の娘)と忠胤の正室(織田信長の娘・於振)は従姉妹どうしである。
  6. ^ 『寛永譜』によれば、茶室で「争論」に及んだ2人を忠頼が「ささへむとして、左平次が刃にかかりて横死す」[1]
  7. ^ 『徳川実紀』の按文では、実際には9月1日に忠頼が死亡しており、29日は届け出の日付であろうとしている[13]
  8. ^ 『徳川実紀』では「左馬允忠頼兼て半八をふかく愛しければ」とある[12]
  9. ^ 『寛政譜』の忠頼の項目では定勝の養子になったとあるが[16]、定勝の項目には子(養子)としては掲げられていない[22]

出典

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s 『寛政重修諸家譜』巻第五「松平 桜井」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第一輯』p.27。
  2. ^ a b c d e f 川口 1991, pp. 258–259
  3. ^ “櫻井神社”. 古社寺巡拝記. 2021年11月27日閲覧。
  4. ^ a b 『寛政重修諸家譜』巻第五「松平 桜井」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第一輯』pp.27-28。
  5. ^ a b 浜松情報BOOK n.d., 生涯.
  6. ^ “織田氏(長益家系・大和戒重藩、芝村藩)”. 平成新修華族大成. 2013年8月9日閲覧。
  7. ^ a b “『尼崎市史 2』p119に掲載されている松平家の6代家広、8代忠重について知りたい”. レファレンス協同データベース. 2021年11月25日閲覧。
  8. ^ a b c d e 村礒 1991, p. 354
  9. ^ “浜松城と家康”. 浜松市史 ニ(ADEAC所収). 2023年5月23日閲覧。
  10. ^ a b “松平忠頼”. 浜松市史 ニ(ADEAC所収). 2023年5月23日閲覧。
  11. ^ a b c 『寛政重修諸家譜』巻三百二十八「水野」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第二輯』p.831。
  12. ^ a b c d e f g h i 『台徳院殿御実紀』巻十・慶長十四年九月朔日条、経済雑誌社版『徳川実紀 第一編』pp.476-477。
  13. ^ a b c 『台徳院殿御実紀』巻十・慶長十四年九月廿九日条、経済雑誌社版『徳川実紀 第一編』p.479。
  14. ^ a b 『台徳院殿御実紀』巻十一・慶長十四年十月十六日条、経済雑誌社版『徳川実紀 第一編』pp.481-482。
  15. ^ 川口 1991, p. 259.
  16. ^ a b c d e f 『寛政重修諸家譜』巻第五「松平 桜井」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第一輯』p.28。
  17. ^ 岩城卓二. “武士の家”. Web版 図説尼崎の歴史. 2021年11月25日閲覧。
  18. ^ a b “水野重仲”. 浜松市史 ニ(ADEAC所収). 2023年5月23日閲覧。
  19. ^ 『台徳院殿御実紀』巻十一・慶長十四年十二月十一日条、経済雑誌社版『徳川実紀 第一編』p.485。
  20. ^ 『台徳院殿御実紀』巻十一・慶長十四年十二月二十二日条、経済雑誌社版『徳川実紀 第一編』p.486。
  21. ^ 『寛政重修諸家譜』巻第六「松平 桜井」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第一輯』p.31。
  22. ^ 『寛政重修諸家譜』巻第五十四「松平」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第一輯』pp.285-287。
  23. ^ 『寛政重修諸家譜』巻第六「松平 桜井」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第一輯』p.34。

参考文献

  • 寛政重修諸家譜』巻第五
    • 『寛政重修諸家譜 第一輯』(国民図書、1922年) NDLJP:1082717/23
    • 『新訂寛政重修諸家譜 第一』(続群書類従刊行会、1964年)
  • 川口謙二「松平忠頼 囲碁の助言が招いた惨劇」『大名廃絶読本』、読本シリーズ第3号、新人物往来社、1991年。 
  • 浜松情報BOOK「松平忠頼04 まつだいらただより」『ジャンルから調べる(人物)』、読本シリーズ、浜名湖国際頭脳センター、n.d.。 
  • 村礒栄俊「廃絶大名三百家人物事典」『大名廃絶読本』、読本シリーズ第3号、新人物往来社、1991年。 

外部リンク

  • デジタル版 日本人名大辞典+Plus『松平忠頼』 - コトバンク
桜井松平氏当主
松平郷 信広 長勝 勝茂 信吉 親長 由重 尚栄 重和 信和 親貞 尚澄 親相 信乗 信言 信汎 頼載 信英 信博 九洲男 信泰 英男 弘久 輝夫
宗家 信光 竹谷 守家 守親 親善 清善 清宗 家清 忠清 清昌 清直 清当 義堯 義著 義峯 守惇 守誠 善長 清良 清倫 敬信
宗家 親忠 大給
宗家 長親 宗家 信忠 宗家 清康 広忠 家康 徳川氏
三木 信孝 重忠 忠清 断絶
鵜殿 康孝 康定 清長 清吉 清忠 清政 清次 祐義 義清 祐教 清門 義崇 義理 健三郎 鉄太郎 富次郎
福釜 親盛 親次 親俊 康親 康盛 康俊 康兆 康永 断絶
桜井 信定 清定 家次 忠正 忠吉 家広 忠頼 忠重 忠倶 忠喬 忠名 忠告 忠宝 忠誨 忠栄 忠興 忠胤 忠養
東条 義春 忠茂 家忠 忠吉 断絶
藤井
滝脇 乗清 乗遠 乗高 乗次 正貞 正勝 重信 信孝 信治 信嵩 昌信 信義 信圭 信友 信賢 信進 信書 信敏 信成 信広 信鑰 宏光 平人
形原 与副 貞副 親忠 家広 家忠 家信 康信 典信 信利 信庸 信岑 信直 信道 信彰 信志 信豪 信義 信正 信興 信美 忠正
大草 光重 親貞 昌安 昌久 三光 正親 康安 正朝 正永 断絶
五井 忠景 五井 元心 信長 忠次 景忠 伊昌 忠実 伊耀 忠益 忠明 忠根 忠寄 忠命 忠元 忠質 忠凱 弘之助
深溝 忠定 好景 伊忠 家忠 忠利 忠房 忠雄 忠俔 忠刻 忠祇 忠恕 忠馮 忠侯 忠誠 忠精 忠淳 忠愛 忠和 忠威 忠諒 忠貞
能見
長沢 親則 親益 親清 勝宗 一忠 親広 政忠 康忠 康直 松千代 忠輝 直信 昌興 親孝 親応 親芳 忠道 忠敏 忠徳
桜井松平氏金山藩武蔵松山藩藩主 (1600年 - 1601年)
桜井松平氏浜松藩藩主(1601年 - 1609年)
桜井松平家
  • 松平忠頼1601-1609
  • 殺害され、養子も認められず改易
水野家
高力家
大給松平家
太田家
青山家
本庄松平家
大河内松平家
本庄松平家
井上家
水野家
井上家